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食料管理制度と米の流通

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食料管理制度と米の流通

第二次世界大戦での物資逼迫は当然米などの食料品にも及んだ。1942年に東条英機は食料流通を国家統制することに決めた。もちろん国家統制が及んだのは食料だけではなかった。自由競争よりも国家統制により「強い国づくり」を目指したのは、その当時の大きな方針だったといえる。

1960年1月3日の新聞記事(出典なし)によると、戦後の闇米の事情は次のようなものだったという。
戦後食料難が続き、国家配給米では国民の必要を満たす事はできなかった。国民は闇米と言われる自主流通米を手に入れることで、飢えを満たした。農家は売れる米は闇米として高値で流通させ、あまりおいしくない米を政府米として納入するようになった。価格差はなかったのだが、現金収入になり、課税されない闇米の方が魅力的だったのだという。政府もまずいことを承知で米を売ったので、政府米に対する信頼は失われた。米穀店も政府米だけではなく、闇米を扱っていたのだが、これは公然の秘密だった。政府米は売れ残ることになるので、米屋は政府米を混ぜて闇米を売った。「闇米もそんなにおいしくない」ということになり、政府米が売れだしたのだという。

しかし、農業協同組合の組織率の高さを考えると、農家が好き放題に米を売っていたとは考えにくい。GHQは行政から独立した農業協同組合を作りたかったのだが、食料が逼迫していたことから国家統制を取り除くことができなかったのだという。農業協同組合は農林水産省の出先機関だそうだ。そして組織率の高さから票田として利用された。自由民主党の長期安定政権を支えていたのは農協だった。農協は金融機関も兼ねており、農村での権力は絶大だった。

大貫一貫の「ニッポンのコメ」によると、農家は自分の所で食べるということで米を闇米として流通させていたのだという。その他にも、農家が正規ルートに売り払った後に、流通経路を外れる米もあったらしい。

農村は農協によって守られている。農協は国から守られており自民党の権力を支えている。農村人口は全人口から見れば大多数ではないが、まとまりといった点では都市の浮動票よりも頼りになったのである。しかし一方で農村の倫理観はそれほど進展しなかった。悪い事をしても誰かがかばってくれるというような空気があったことは確かだろう。

発展途上国体制の終わり

農村は国が統制していた、といってもよい。農家、農業協同組合、農林水産省、自民党が一連の組織となって共存共栄の関係が続いていた。何か問題が起こったとしても内部で処理されたのだろうし、表沙汰になることはなかった。この体制は農家の収入を保証した。米価の暴落を防ぐためには、減反政策を取り、生産調整を強制することもいとわなかった。減反政策は1969年に始まったとのことである。
1992年には「オラを告発しろ」と自称ヤミ米商の川崎磯信が本を出版。300万円の罰金を課せられた。

1993年にコメが不作となり、国産米が暴騰した。タイ米が大量に輸入されたが日本人好みの味ではなかった。タイでは米の価格が高騰したのだが、日本人には人気がなく多くが廃棄されてしまったという。

1994年3月には闇米を大量に買い付けた量販店、城南電機の前に長蛇の列ができ、テレビニュースで取り上げられた。食糧庁は無許可販売として行政指導を行ったが、これが逆宣伝となり闇米を売った農友の取り引きは拡大した。
しかし食料管理制度は1995年に崩壊する。1995年にはミニマム・アクセス米が割り当てられ、安い米が輸入されることになった。

この事で分かったのは、闇米は違法としながらも、実際は20〜30%程度闇米流通していたという事情だった。農村は、農協や国に守られつつも、裏では、減反せずに余った米を闇米として流通させ続けていたのである。国もこれを大きく取り締まることはなく、いわばなれ合いの関係が続いていたということになる。

「ニッポンのコメ」によると、食管制度が変わっても生産者側では統制経済のような生産統制が続いているのだという。消費側は自由経済である。この制度、次の豊作時に破綻するかもしれないと言われているそうだ。


農政 – 過去のトラウマ

日本の農業は戦前、虐げられる小作農対地主という構図があった。このため、今でも農地を取得する場合には自分で農業をやる(自作農)ことが前提になっている。日本の農家は大規模資本家が乗り込んで来て多数の小作を抱えることを危惧している。農地取得には農業委員会の審査が必要だ。
農地委員会は市町村に置かれているのできめ細かな審査が可能なのだが、当然の事ながら地元の利権構造が影響を与えることになる。小規模の農家は大規模の農場には勝てない。しかし小規模農家の数は多いので農業委員会を支配することができる。つまり日本の農業はシステム的に新規参入が妨げられている。

また米は戦前投機の対象だった。江戸時代までは、貨幣の役割も果たしていた。最初の米先もの相場は1730年だそうである


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