ファッションに見る、消費者の誕生

買い物は祝祭化しており、場合によってはかつて宗教が果たしていた機能を代替している。この主張を「ああ、そうだな」とか「何かの哲学書で読んだなあ」と感じる方もいらっしゃるだろう。また、そんな馬鹿なことがあるはずはない、と思う人もいるのではないかと思う。ある人は宗教はそんなに軽薄なものではないと思うだろうし、ある人は宗教のように訳のわからないものではないと感じるだろう。






これはおもしろい問題だと思う。なぜなら、本来、消費は儀礼行動ではないので、儀礼空間が持っている機能をすべて満足させることができないからだ。では、いったい何が欠けているのだろうか。
かつて宗教と買い物の間にははっきりした垣根があったはずだ。ファッションの歴史(下巻)を参考に見て行きたい。ファッションの近代化は1815年頃から始まった。背景にはアメリカが綿の生産地になったこと、テキスタイルの機械化が進んだことがある。1829年にバルセルミー・ティモニエがミシンを商業ベースに乗せる。その後、アイザック・シンガーがミシン業界を席巻した。工程の分業化が進み、デパートで注文服を受け付けるようになる。

しかし、一番重要な点は「中産階級」が生まれたことだ。チャールズ・フレデリック・ワース(シャルル・フレデリック・ウォルトと書いている文献もあるが同じ人だ)が、予めデザインを作り、それを売り込むことを始めた。これを「オート・クチュール」と呼ぶ。1851年、第一回ロンドン万博が開かれた年だ。最初は中産階級向けに商売をしていたのだが、メッテルニッヒ公爵夫人に服を売り込んだ。これがパリ中で評判を呼び、ついには海外からの観光客を呼び寄せるまでになった。(ちなみに、トーマス・クックにより鉄道による団体旅行が行われるようになったのは1839年から1841年頃だった。)

ファッションデザインアーカイブによると、1868年にフランス・クチュール組合(サンディカ)が作られ、1911年にパリのファッションショーが開始される。プレタポルテが出てくるのはこれよりずっとあと、第二次世界大戦後だそうである。つまり、19世紀の後半にはファッションショーはなかった。

デパートが生まれ、服が産業として成立したのは、産業革命の後「消費に回す金がある中産階級の人たち」が生まれたからだ。彼らは「労働とは別に消費をする場所と時間」を持っていた。もともとこうした時間や空間を持てたのは土地を持っている貴族だけだったのだが、経済が成長し、層が厚みをましたのだと考えられる。『共産党宣言』が刊行されたのが1848年だそうだ。プロレタリアート(無産階級)という言葉が発明された時点で、彼らは資本家であり、ブルジョワだという概念が発明されたことになる。「資本主義」という言葉が成立したのもこのあたりではないかと思う。

この頃の市民はまだ宗教に影響を受けた生活をしていたはずだ。神様が死んだり(ニーチェ)、無意識という言葉が発明されたり(フロイト)するのはまだ後のことだ。なぜ消費の担い手が貴族から中産階級に広がると消費が始まるのかという疑問は残る。身分が自明でなくなった分、支出によって身分を証明したり、価値観を共有する必要が出て来たということなのではないかと思う。消費の現場にいなければ、流行に関する情報を得る事はできなかっただろう。

ワースがオートクチュールを始めるまで、ファッションデザインといってもそれほど突飛なものはなかった。消費者が「生地を買い」「装飾品を選び」「仕立て屋に行き」「お針子に仕立てさせる」という作業を行っていたのだ。つまりコミュニティに流行があり、その流行に沿ったものを消費者が選んでいたということだ。男性服からは顕著なファッション性は消えていたが、女性服の流行はめまぐるしく変化しつづけていた。

今とは情報の伝達の仕方が逆になっている。現代では、出来合いの服を選択し、それをどう組み合わせるかで「モテるかどうか」が決まる。つまり、自分が所属したいコミュニティに所属できるかどうかが決まる。さらに、コミュニティがどのような「モテ」を選択するかには明確な決まりはない。「自分にあった服を着ればいいんじゃないですか」などといいながらも漠然としたラインは存在する。コミュニティの移動も可能といえば可能だ。高校時代オタクだった子が、東京に出てくるのをきっかけにPopeyeや「脱オタクファッションガイド」を片手に服を探すということがあり得る。

しかし、消費者が出て来た時代には、それなりのコミュニティがあり、規範が決まっている。どのような服を着るのかということはメンバーに知られていて、それに従って職人が服を作る。消費階級がふくらみ、上流階級のコードを伝達するうちに「モード」が生まれ、やがて、発信源が「デザイナー」に取って代わられるようになった。

こうした流れはやがて、人々に「自分は何者か」という問いを突きつけるようになる。まず科学が発展し、自分たちが聖書をベースにして作り上げて来た世界観が「実は正確でない」ことに気がつき始める。国際分業と植民地獲得競争が激化するにつれて「国民」という概念が組み上げられるようになる。930年代のドイツやオーストラリアの人たちのように「ドイツ性」や「ドイツ語圏を生きるユダヤ人性」というやっかいな問題もうまれた。やがて、ウィーンに上京して来た画家志望の青年が、都市のコミュニティから排除されたのち「崇高なアーリア性」を崇拝するような時代がやってくるのである。ヒトラーがウィーンで美術学校に受け入れられていたら、現在のヨーロッパは今とは違った形になっていたかもしれない。

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