脳内物質と幸せ

愛は脳内物質が決めるを読んだ。前回で考察した宗教のように、漠然としていて直接作用しないかもしれないものより、科学的で計量可能なものの方が役に立ちそうだ。宗教で心の安寧が得られるという記事を読んだ人は「この人大丈夫か」と思うかもしれないが、科学であればそういった疑念も抱かれないだろう。
実際に幸福を司る脳内物質は特定されている。ドーパミンがそれだ。ドーパミンは幸福、インスピレーション、意欲、期待感などと関係している。政治が「最大多数の最大幸福」を実現させる手段だとすれば、その役割は税金をドーパミン注射(そんなものがあるのかは知らないが)に当てることだと考えてよいだろう。
ヒトは様々な脳内物質を分泌している。例えばテストステロンなどが有名だ。しかし、こうしたホルモンの働きは長続きしない。これを長期的な「愛着」に変えるのにドーパミンが役に立っているらしい。ドーパミンは学習物質で、動機付けと報酬として使われている。つまり、私たちはよい選択をした結果、ご褒美として幸福感を得る事ができるのだ。
さて、良さそうな「国民総幸福化」計画だが、やはり落とし穴はある。ドーパミンが亢進した状態は精神分裂病に近い症状なのだそうだ。統合失調症の原因にはドーパミン仮説というものもある。全ての人の考えがまとまらず、幻覚ばかり見ていたり、本人には完璧に思えるが脈絡のない詩をのべつまくなしに生み出している状態が「幸せなのか」と考えると、社会通念上はやはり「そうとは言い切れない」と考えた方がよさそうである。
この謎を解く鍵は、ホルモンとヒトの行動との関係にある。それぞれのホルモンには様々な働きがあり、また単体ではなく連動して動いている。年代によってホルモンバランスは異なり、本の主題となっている「愛と性生活」だけを取っても、20代の幸せと60代の幸せは著しく異なる。また、ホルモンバランスは外的環境に作用されやすい。パートナーとのふれあい(肌の接触)、社会的地位、見込み、瞑想まで、影響は多岐に渡っている。変化を通じて「適正なバランス」が保たれる事が重要であり、何が適正かは年代によっても大きく変わる。当たり前のことだが、幸せの形は多様だ。
さて、夢のような薬を飲んで幸せが得られそうもないということが分かると、その逆もまた正しいのではないかと思える。つまり鬱病を治療するのに特定の薬を飲んでも効果がないのではないかということだ。例えば過酷な職場環境に耐えかねた人が鬱病を発症する。この人を手取り早く直そうとして、薬だけ与えても、外的環境が変わらなければ治癒しないだろう。複雑な脳内環境の一部を人工的に弄っているだけだからだ。唯一できるのは、傷ついた部分を修復し、環境が再度整うのを待つだけだ。
「手っ取り早く幸せになるホルモン療法」という考え方を堂々と主張すると「この人は気が変になっちゃったんじゃないか」と思われてしまうのだが、逆を言っても「この人はおかしくなった」とは言われない。鬱病には適切な治療薬があり、投薬=治療という通念にも同等の怪しさがあるのではないかと思う。
幸福はかなり複雑で動的な状態のことだ。だから仏教が主張する「全てのものは変化の過程でしかない」というのはある意味当たっている。だからといって「実体がないから苦しみなど存在しない」という境地に立てるかどうかはまた別の問題だ。
ヒトを「化学物質に操られる機械だ」と考えることに抵抗を持つ方もいらっしゃるかもしれない。だから薬を飲めば精神的不調が解消するのだといった間違った結論が得られるのだろうと考えることもできる。
だが、別の考え方もある。例えば、一方で企業を運営する人たちは人間を回復可能な部品だと考えている。つまり厳しい企業経営環境に対応するために競争力を増して行ったときに、パーツである人間は「仕組みはよく分からないけど、なんとかして回復するだろう」と考える。しかし、実際には減耗するまで使ってしまうとその後の回復には時間がかかる。そもそも幸福感が学習と関係しているということは、幸福感が得られない企業環境は何も学んでいないし、学習不全に陥っているということだ。つまり「従業員が幸せを得られないということは、その会社が変化に対応できず滅んで行く」ということだし「国民が幸福を得られないということはその国が変化から取り残される」という洞察も得られるのである。

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