テレ東BIZの「相次ぐ“マイナ”トラブル 複雑怪奇な政府のデータ管理 真のデジタル化は遠く…【日経プラス9】(2023年5月26日)」というYouTubeを見た。中に「若い人は知らないでしょうが」と言われる住基ネットの話が出てくる。この裁判の元になったのは「政府が共通番号を作ってしまうと国民は政府に支配されてしまう」といういわば幻想だ。つまり事務効率化が左派の被害者幻想によって妨害されているということになる。テレ東BIZは格調高くこのあたりの問題を避けており別の解決策を提示していた。
結果として意図せずに個人情報を他人に見られる人が出てきたことになる。実に皮肉な話といえるだろう。今回は住基ネット訴訟について少し調べてみた。
まずテレ東BIZのフッテージの内容を見てゆく。日本経済新聞の大林尚編集委員が解説している。大林さんの専門は経済だそうだ。
マイナンバーは分散システムになっている。マイナンバーシステムをキーにして「全ての情報」が自動的に紐づかないようにするための措置だ。このためマイナンバーにと情報機関の間にそれぞれの「機関別符号」という番号がついている。この個別の符号の入力はどうしても人が入力する仕組みになる。一方で個別の情報保有機関側はマイナンバーや「基本4情報」と呼ばれる氏名、住所、性別、生年月日は持ってはいけないことになっている。たとえば健康保険のDBに基本4情報とマイナンバーを持つと個人情報が特定されかねない。
この面倒な仕組の源流は2008年の最高裁の判決だ。「住基ネットは合憲である」としたが、合憲である根拠として「行政事務で扱う個人情報を一元管理できる主体がない」ことを挙げた。このため「個人情報を一元的に扱う主体=デジタル庁」ができると違憲になりかねないという状況が生まれた。
日本経済新聞の大林尚編集委員はこれは総務省の過剰反応だろうと言っている。つまり純粋には憲法問題ではないとの立場である。
このフッテージは住基ネット問題の経緯については扱わず結果だけを扱っている。さらに弊害が出てきたのだから「システム全体を作り直せ」と主張する。
では元になった住基ネット事件というのはなんだったのか。具体的には一つの事件ではなく各地で起こされた訴訟の塊を指している。
この一連の判決についてまとまったWeb記事はない。同志社大学法律学科の佐伯彰洋さんが「住基ネット訴訟の論点」という論文を書いていてPDFがネット公開されているので読んでみた。
地裁判決をまとめてゆく中で「憲法第13条」との関係が問題になっていった。憲法第13条を根拠にすれば、日本国民は誰でも「国から勝手に情報を開示されない」権利を有しており、日本政府も地方自治体も「勝手に情報が漏れないように」努力する必要があるということになる。ただし原告らのいう「自己情報コントロール権と称する権利」の中身は曖昧であるとも指摘している。
国民が主体的に政府を選ぶことなどできないのだから有権者は主体的にシステムから離脱できる権利を留保されるべきだというのが長年放置されてきた左派の言い分である。「被害妄想」という言葉がきついのであれば「被害者幻想」と言って良いのかもしれない。だが小選挙区制のもとで左派が小選挙区から排除されてきたのもまた確かな事実ではある。だがそれは皮肉なことにシステムの効率化を妨げ「情報漏洩」という弊害を生み出している。
住基ネット時代には「データマッチング(全ての情報を名寄せして新しいデータベースを作ること)」は想定されておらず従って「データマッチングしないこと」を前提に住基ネットの正当性の議論を組み立てることができた。この最高裁判決がマイナンバーシステムより先に確定してしまったことが今回大林氏が指摘した問題の根幹にある。裁判をしないと「合憲か違憲か」はわからないわけで「政治家が責任を取ります」と言わない限り総務省の官僚の独断では動けないだろう。
あるいはデジタル庁に権限を渡したくない総務省側が「憲法問題」を盾にして協力を断っているのかもしれない。大林氏は盛んに縦割りの弊害について言及しているがその中身については触れていなかった。知ってはいるがあまりいいたくないことがあるのだろう。
日経新聞はおそらく「攻撃しやすいところ」を批判しているのだが、おそらく実際の問題は議論が整理されないままマイナンバーシステムを強行した安倍総理の側にある。
住民基本ネット訴訟の裏にあるのは左派(社会党・共産党)の支持者の一部が持っている被害妄想的な恐れの感情である。彼らはシステムができれば必ず権力という化け物に悪用されると考えている。この考え方は自衛隊にも共通する。軍ができれば政治家が必ず戦争をやるというのが彼らの理屈である。
その彼らが根拠にしているのが「政府は国民に番号を降りあたかも刑務所のように国民を管理しようとしている」という言説である。これが今知られている「国民総背番号制」の一般的な印象である。
社会党の「国民総背番号制批判」は時代と共に独自のエコーチェインバーの中で「被害妄想」といったレベルにまで膨らんでゆく。これが結実したのが最高裁判所も戸惑った「いわゆる自己情報コントロール権と称する権利」だったと言えるだろう。
では国民総背番号はもともと社会主義者のレッテルだったのか。どうもそうではないようだ。
そもそも国民総背番号制という言葉はどこから出てきたのか。国会データベースを検索すると衆議院で最初にこの言葉を使ったのは中村重光という社会党の議員だった。1970年(昭和45年)当時「伝えられておるような一億国民総背番号」という使われ方をしている。どうやら報道の方が先行していたようだ。
朝日GLOBEで小笠原みどりさんという人が「マイナンバーというゾンビ 新型コロナで義務化を仕掛ける政府が隠す過去」という記事を書いている。「空疎なユートピアから来たゾンビに、付け入るスキを与えないために。」と力強く記事を結んでおり「マイナンバーは政府の策謀だ」と決めつけている。
確かにそのような権力者が現れない確率はゼロではない。だが、実際に複雑すぎるシステムには弊害も起きている。将来現れるかもしれない悪魔のような権力者と現在の問題のどちらを解決すべきかは冷静に判断されるべきだろう。
この小笠原さんが「国民総背番号」といういかにもセンスのないネーミングをしたのは誰だったのかについて意外な指摘をしている。元衆議院議員で医師の中山太郎さんだったそうだ。1970年に「一億総背番号」という本が出ているそうだ。事故にあったN氏が「政府によって一元管理された個人番号と身分証明書」によって助かったという未来予想図を書いている。N氏という言葉からは星新一のSFが思い浮かぶ。おそらく中山太郎さんは「少し洒落た」つもりでこの本を出版したのであろう。
ここまで調べてみて別の疑問が浮かんだ。
これほどまでに強い反対がありながらマイナンバー制度が導入されたのはなぜだったのだろうかという疑問だ。なぜ左派は反対しなかったのか。
もともと民主党が低所得者対策のためには「給付付き税額控除」が必要だと訴えていた。直接給付で国の関与を減らすことで自民党が持っている利権分配構造を切り崩そうというのが当時の民主党の戦略だったのだろう。
「とにかく左派が嫌い」な安倍総理はこれをなんとかして切り崩したい。
そこで消費税と給付付き控除を切り離したうえで公明党の提案する軽減税率を採用する。もともと「国民総背番号制度」に反対していたのは社会党であり民主党には社会党から大勢の人が流れ込んでいる。民主党は軽減税率の前提として「マイナンバーによる所得の捕捉が必要」と主張していた手前、マイナンバーシステムそのものに反対できなくなってしまった。こうして2013年5月にマイナンバーシステムが成立してしまう。
与野党の反対がなかったためマイナンバー導入は強行された。しかし積み残しになった住基ネットの問題は解決されなかった。
そもそもなぜ安倍総理はマイナンバーシステムの導入にこだわったのか。
安倍元総理の政治家としての原点は岸信介総理を退陣に追い込んだ安保反対デモにある。おそらく安倍氏が蛇蝎のように社会主義者を蔑視していたのはそのためだったのだろう。もともと共通番号制度を最初に提案したのは安倍首相の大叔父にあたる佐藤栄作総理だった。これが社会党の反対で実現できなかったことをおそらく安倍総理は恨んでいたに違いない。
テレ東BIZで語られなかった「住基ネット問題」の源流にはこうした不毛な意地の張り合いと極めて不合理な議論の積み重ねがある。結果的に最高裁判所は「データマッチング」は違憲になる可能性があると認めてしまい総務省の官僚は身動きが取れなくなった。さらに、安倍総理もそれを整理しようとはしなかった。
その結果として「意に沿わない形で自分の個人情報が他人に知られてしまう」可能性の残ったシステムが作られてしまったことになる。
日本経済新聞の大林尚編集委員は「システムを作り直せ」という。経済の専門家にとっては「簡単なこと」に違いない。
確かにシステムの専門でない人は「キーの変更くらい」簡単にできるだろう思ってしまうのかもしれないが、キーを作り直すということは「システムを根幹から作り直せ」と言っているのと同じことである。つまり住基ネットも失敗しマイナンバーシステムも失敗したからまた新しいものを作り直してテストも全部やり直せと言っている。
それでもぜひそれが必要というのであればまた巨費を投じてシステムを作り直すべきだろう。だが、おそらくスパゲティのように絡み合っているのはコードではなく「意地の張り合いと不毛な議論」だ。これらを全て整理してからでないと新しくシステムを作ってもまた同じような問題は繰り返されるであろう。
この問題について調べていて「どうしてこうなったのか」はなんとなく理解できた。だが「どうやったらこの問題が解決できるのか」はさっぱりわからない。過去には合理的な思考ができる政治家はいなかったということはわかった。だが現在の論争を見ていても合理的なアプローチで問題を整理しようという国会議員は一人も見当たらない。つまり問題は解決されずこのままスパゲティーのように絡まった感情的な議論の蓄積と共に放置される可能性が高いということになる。