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なぜ日本の国会はG7首脳声明の前にLGBT理解増進法を成立させられなかったのか

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「何でも先送りにする国」という印象の日本だがG7広島サミットが思わぬ形で我々に投げかけたものが二つある。それが資本主義のあり方と価値観の共有である。資本主義・民主主義のあり方については「チャイナ・デリスキング」で触れたので、このエントリーではLGBT問題を題材に「価値観」について主に扱う。LGBT理解増進法が国会で成立する前にG7の声明が出てしまった。

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まず「価値観」の立ち位置から見てゆく。閉幕より一足早く発表されたコミュニケは次のような構成になっていた。

G7はロシアや中国に対抗し資本主義と民主主義を守ってゆかなければならない。ついでに軍縮や核廃絶も重要だ。ロシアに対してはウクライナを守る決意を改めて確認する。覇権主義を強める中国に対してはインド太平洋の平和を守り抜く。また中国は開かれた貿易のリスクになりつつある。リスクの低減を行わなければならない。

このような題目が置かれており「守り抜く価値観」というものが列挙されている。その中にLGBTの問題が出てくる。つまり冷静に考えると主題ではなく副題のようなものなので「欧米と価値観が一緒になっている」ということだけが形式的に示せていればよかった。

もちろん「そんなアリバイ工作みたいなものでいいのか」という疑問はあるが、少なくとも日本ではG7に間に合わせることが主題になっていた。外務省的な立場から見ると「体裁だけでも何とかならないのかなあ」ということになるだろう。

と一度冷静にこの問題を置いてみると今回の「騒ぎ」とは一体何だったのだろうか?という気になる。

日本を除くG7の大使たちは「LGBT理解増進法を早く成立させるように」と岸田総理に書簡を送っている。リベラルを支持基盤とするバイデン大統領もこの問題には熱心に取り組んでおり対応に後ろ向きな日本が標的になりかねないという危険性もある。日本の活動家からも「日本はハリボテの議長国だ」という批判があった。

だがG7の声明を見ればわかる通り「アメリカの優位性を保ちたい」という本音と「価値観の守護者でいたい」という建前は完全に分離している。だからその辺りは「うまく使い分けてもらえればいい」というのが正直なところだろう。少なくともG7を主催した人たちはそう見ていたはずである。

これに過敏に反応したのが保守派だった。流れについてゆけなくなっているのだ。

日本でいわゆる「保守派」と呼ばれる人たちは「強いアメリカ」に対する畏怖と同時に価値観の押し付けに対する反発がある。問題は保守がこれを全く言語化できておらず入り混じった気持ちを整理できないままで持ち続けていて正面からこの「圧力」を受けとめて反発している。

時事通信は「国会で造反も辞さない」とか「数年かけけてじっくり議論すればいい」という声を伝える。単に形式の問題に「自民党が壊れる」ほどの反発をするというのは極めて滑稽だ。だがおそらく問題は「一体何に反発しているのかが全く伝わってこない」という点にある。

唯一「保守観察家」の古谷経衛氏が論稿を書いているのを見つけたので試しに読んでみた。

古谷さんは日本の保守はあるべき日本社会のイデアとして「戦時統制期」に完成した家族制度を理想としていると断定している。だが、実際に彼らが理想としているのは日本の「準富裕家庭」であると言っている。比較的恵まれた環境で「ノイズ」に触れてこなかったために逸脱に対して許容が少ないというのである。

その後、古谷さんの記事は「とは言え日本の保守政治家の私生活は乱れている」として「歪な共同体幻想」を持つ甘えた保守政治家の糾弾に向かっている。かつて「保守」を志向しながらも、保守に迎え入れられることがなかった古谷さんの心情が極めて強く滲む構成になっているとは言えるだろうが保守派のメンタリティについては依然よくわからない。

ただヒントになる素材は見つけることができた。それは「社会から切り離されている」というような含みである。古谷さんは「世襲で甘やかされた政治家には社会問題が見えていないのだろう」というようなことを言いたかったのかもしれない。

だが本当にそうなのか?と思える。

立憲民主党と社民党にも国民の期待が集まっているとは言い難い。彼らは存在感を維持するために当初案にこだわっている。しかしながら国民世論からはこれを支持する声は聞かれない。リベラルは日本では既に政治アジェンダとは呼べなくなっている。なぜこうなるのか。

LGBTの包摂は社会全体の問題である。つまり社会に対する関心が薄まれば当然リベラルは支持されなくなる。

おそらく立憲民主党に対する今の評価は

  • あの人たちは票が欲しくてLGBTを利用しているのだろう

というものだろう。社会という概念がなくなると、全ての行動は「個人の動機(つまり損得勘定)」に還元されてしまうのである。この後はありもしない損得計算が延々と続く。

さらに維新と国民民主党はさらに不思議な提案を始めた。シスジェンダーと呼ばれる人たちにも配慮しろというのだ。シスジェンダーとは「出生の時の性別と自認する性別が一致している人たち」のことを意味する。

これはあからさまにいえば

  • あいつらに恩恵をくれてやるなら、我々にもなにかくれ

という主張である。差別解消を「恩典」とみなす風潮は昔からあるがそれが一歩前に進んだ形である。ただ「その何か」が何なのかはよくわからない。こちらも言語化はできていない。

「外務省的な日本政府」はおそらく「いろいろな事情があるので形だけでも欧米の価値観に合わせてくれないかな」という要求を持っている。つまりコミュニケという「単なる作文」に国会を合わせなければならないと考えている。経済安保の領域ではこれができている。アメリカファーストの形に合わせてチャイナ・デリスキングが理解されている。このように日本人は損得勘定は比較的うまく扱える。

ところが内心を整理する癖がついていないため、価値観のような「損得」のない問題はうまく扱えない。そのためこの問題について話し合う議会はどこかチグハグな印象が生まれる。いずれにせよ「もやもやを言語化ができない」という事情と「社会が消えかけている」というフィルターを置くと、割と簡単にこの問題が説明できる。

日本政治は「資本主義の次」が見つけられない。G7の一連の動きでわかるように「敵を作り出しなんとか資本主義と民主主義」体制を維持しようとしている。この世界が守られている限り日本は「頂点(サミット)」の一角だといえるからである。

だがおそらく足元では「社会の溶解」という別の問題が起きている。古谷さんは保守に対して「彼らは恵まれており社会を見つめる必要がなかったのだろう」と言っているのだが、おそらくそれは保守に限った話ではない。誰もが「他人のことはどうでもいいが、私には何をくれるのだ?」と日々自問しながら政治を見ている。

特に「シスジェンダー(普通の我々)こそ守られなければならない」というのは次の段階である。我々は政治から十分に配慮してもらっていないと考える人たちがいて、何らかの権利獲得運動のたびに「いや我々こそ面倒を見てもらわなければならない」と声を上げるのである。

ただし「普通の人たち」に配慮しても満足感は生まれないだろう。そもそも社会制度は「シスジェンダー」を前提にしているのだからこれまで満足感が得られていない人がこれ以上の満足感を得るとしたら「誰かを下に置いて蔑む」しかない。つまりそれは差別し続けるということになり前提となった価値観の共有には逆行する。

高度経済成長期は「頑張れば生活が良くなる」という分かりやすいご褒美があった。だから誰も「政治や社会は我々に何をしてくれるのだ?」とは言わなかった。それは自分達で十分手に入れることができたから社会に要求する必要はなかった。

問題はおそらくこうした不満が言語化できていないという点にあるのだろう。他人に要求できないだけでなく自分達の不満や不安が言語化できない。このため問題が整理できずにいるのだ。

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