安保法制の議論が分からないのは何故か

法律整備の手順がめちゃくちゃ

今回の一連の法律には2つの上位になる体系がある。1つは憲法であり、もう1つは日米安全保障条約(「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」1960年成立)だ。日米安保条約の下位に日米ガイドラインがある。今回はまず、集団的自衛権の行使を否定してきた憲法解釈を閣議決定で変更し(2014年7月1日 ハフィントンポスト)、ガイドラインを改定(日本時間で2015年4月28日日経新聞)し、アメリカ議会で夏までの成立を約束してから(2015年4月29日 外務省)、法律を改正することにした。
そもそも憲法と日米安保に互換性があるかどうか議論のあるところに、法案を無理矢理当てはめた為にパズルを組み合わせたように複雑になった。これが、諸々のそもそも論の大元になっている。法案の背景にある論理が破綻しているという議員もいるし(柿沢未途)、他国の領域で戦闘行為は行わないとした安倍首相とできると答えた中谷防衛相の間に矛盾があるという指摘(田原総一郎)もある。また、集団的自衛権が違憲なのではないかといった議論があり、さらに日米安保条約の守備範囲からの逸脱も見られるのだという意見もある。

全体像が見えない

推進派(自民党の議員や読売新聞・産經新聞)の説によると、今回の法整備の目的は日米安保の更なる強化と平時から有事までのシームレスな対応などらしい。ところがこの説明を聞きながら国会中継などを見ているとつじつまが合わないところが出てくる。自衛隊が協力する相手がアメリカ軍に限定されておらず、オーストラリアやインドなどの名前が挙っている。7月1日の閣議決定(前出派フィントンポスト)を読むと「日米同盟の強化」を唱う一方で「どの国も1国で平和を守ることができない」と言っている。
アメリカ議会での演説を引くと、日米同盟の守備範囲が太平洋からインド洋にかけての広い範囲を自由で、法の支配が貫徹する平和の海にするらしい。
どうやらもっと広い協力体制の構築が念頭にがあるらしい。このような視点からインターネットを見ると、APTO – アジア太平洋条約機構(もちろん現在このような構想はない)とTPP体制について言及している人たちがいる。アメリカが主導して作る経済と軍事の国際的な枠組みだ。ヨーロッパのNATOとEUに該当し、中国の封じ込めを目的にしている。これを国民に説明せずに議論が進んでいるので議論が錯綜している。
APTOもTPPも国家主権の一部放棄につながる。この放棄が正しいかどうかは、枠組みが戦略的に合理的かどうかという問いになる。ところが全体像が見えないために、議論そのものが成り立たない。
この不整合を合理的に説明するために「安倍首相は現状が分かっていない」とか「おじいさま(岸信介)への思いから暴走している」と主張する人もいる。(佐藤優 リテラ

歴史的な経緯

日本の軍備に関する状況は、外的要因の変化が積み重なって、お互いに整合しないままなんとなく成立している。まず、第二次世界大戦後日本が再び地域の脅威にならないように憲法で再軍備が禁止される。その後ソ連と中国が台頭し、朝鮮半島情勢が緊迫したために、アメリカは日本に再軍備を求めた。しかし、吉田茂首相は、自衛隊の基礎になる組織を発足させたものの、憲法第九条を盾に、軍事費を最低限に抑えて経済発展を優先させる政策を取った。これを吉田ドクトリンと呼ぶ。結果的にこうした経緯が積み重なり第九条と自衛隊のねじれた関係が生じた。その後、冷戦が終わり状況が複雑化し、アメリカは日本に応分の負担(リスクと金銭的負担)を求めるようになったが、日米安保条約も憲法もそれに合わせた改訂が行われていない。
日米同盟強化を指向する人たちは、アメリカという極に寄り添っていれば、自動的に日本の安全が守られると推定している。しかし、この期待は裏切られるだろう。リスクの分担と応分の負担が求められているからだ。安倍政権は今回の法改正でリスクが高まることはないといっているか「嘘をついている」か「現状とアメリカの要求を誤認しているか」ということになる。どちらなのかは分からない。
日米安保は日本防衛のために必要な枠組みと説明されている一方で、日本の軍事大国化防止が目的だという見方がある。(ヘンリー・スタックポールの「瓶のふた」発言 日経新聞
こうした諸々の事情から、日本の憲法第九条を巡る議論は硬直化した護憲派と現状を認識していない改憲論者に支配されてきた。全体像が見えないために多くの国民は複雑な議論についてゆけず、無関心なままである。

分からないと何が起こるのか

護憲派(特に憲法第九条の)の現状認識は第二次世界大戦直後から変化していない。このため「現状認識が甘い」ものとみなされ積極的な賛成が得られない。中には、アメリカに反対するということは、対中追従だから反日である、という単純化した議論も見られる。
改憲派と現在の政権担当者は、歴史的に堆積し、お互いに整合性があるかどうかよく分からない体系に無理矢理現状を合わせている為に複雑な説明を強いられている。また、潜在的には「アメリカが押しつけた憲法やアメリカが押しつけた戦争観(東京裁判史観)を脱却すべきだ(自主独立派あるいは修正主義者とも)」という人たちと「現状を甘受し日米安保を堅持すべきだ(対米追従者あるいは現実主義者)」という対立がある。
国民の無関心は政権にとって好都合のように思えるが、政策についての理解が広がらず、従って積極的な賛成が得られない。誰も主体的な判断ができず、結局どっち付かずのうちに状況に流されることになるだろう。国民も政治家も主体的な動きができないので、戦争に巻き込まれるかどうかは運次第ということになるだろう。

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