地方選挙後半戦と衆参補選の投開票日を迎えた。各政党の浮沈をかけた戦いの結果がいよいよ判明する。一方で岸田総理を襲撃した木村隆二容疑者のパイプ爆弾の威力が「実は拳銃弾並みだったのではないか」とする報道が見られる。犠牲者が出なかったのはおそらく偶然だったことになるにつれ「うかうかと選挙演説を見にゆくのは危険だ」という印象も強まり政治と有権者の距離は遠いものになった。
時事通信が二つの記事を出している。
いずれも和歌山県警察の発表である。今回の問題を事件化するにあたって木村隆二容疑者の計画性と凶悪性を印象付ける狙いがあるものと思われる。計画性ある凶暴な事件だったからこそ殺人未遂で起訴できる。単に威力業務妨害だけでは刑が軽すぎて世間から反発されることを恐れているのかもしれない。
マスコミは県警の発表を一方的に流し世間はそれをなんとなく受け入れ「凶悪な犯罪が行われたのだろうなあ」と納得して終わりになる。実は「威力か?」と書かれているだけで、スポーツ新聞とあまり報道姿勢が変わらない。拳銃弾並みの威力ということになっている。拳銃並みの威力と書けないのは「結果的に飛散したものが銃弾並みの威力があったかもしれない」だけで「爆発物が拳銃並みだったかどうかはわからない」程度のことしか解明していなからだろう。これが「手製の銃」で「実際に人命が失われた」山上徹也被告の事件と違っている。なんとなく奈良と相場を合わせようとする和歌山県警の苦労を感じる。
だが「なんとなく恐ろしいことが起こったが容疑者が捕まったことで事件は過去のものになった」と思いたいのであれば、この程度の報道で十分なのである。
だが報道姿勢が曖昧なことで、漠然とした不安は残っている。
体を張って容疑者を阻止した漁師さんはかなり危険な賭けをしていたことになる。勇敢な行為だと思うのだが次に同じような経験をする人は早く逃げたほうがいいことになる。
岸田総理は漁港の風評被害を気にしているようだが、風評被害という意味では実は選挙戦に対する影響の方が大きかった。
迂闊に選挙を見物するのは危険なのではないかという風評が広がった。当初マスコミでは「テロに負けて政治家が萎縮するのは良くないのではないか」という論調が見られたのだが、脅威が伝わるにつれ「やはり有権者の身の安全が大切である」と内容が変化していった。
コメンテータたちは盛んにこう言っていた。
- 「そういう時代になってしまったのだから仕方がない」
時代のせいで片づけられてしまったのだ。とにかくあまり考えたくない、水に流して終わりたいという気持ちがよく表れている。結果として要人の警護は厳しいものとなり「ふらっと演説を聴きにゆこう」というようなことは難しくなったようだ。だが時代のせいなのだから仕方がない。
もともと総理大臣や閣僚が演説を行う目的は三つあるだろう。
- 聴衆をたくさん集めてきて「この政治家は一般大衆に人気がある」とするマスコミ向けの絵を作る。
- 市議会議員や県議会議員が動員をかけることで「普段からこの地区の先生たちは頑張っているのだな」と活動を図るバロメーターになる。
- 「選挙には興味はないがテレビで有名なセンセイの顔を見てみたい」という無党派層に候補者の顔を覚えてもらうチャンスになる。
結果的にこれらの「目的」をあのパイプ爆弾が吹き飛ばしたことになる。
維新もまたこの影響を受けたようだ。
もともと維新はテレビを通じた派手なメッセージングの一方で「自民党型のドブ板選挙」を熱心にやってきた。大阪南部を中心に維新が躍進したのはこの堅実な選挙戦によるところが多いのだろう。一方で改革型政党を志向しているため、選挙にはあまりお金をかけたくない。このため抑止力としてスタッフを目立たせるという作戦に出たのではないかと考えられる。
木村隆二容疑者の元々の動機は「選挙が若者に遠い」というものだったと考えられる。その遠因は失われた30年だ。だが、結果的には選挙は無党派から遠くなり問題の解決は難しくなった。今後の若者の政治参加意識に悪影響を与えないことを祈るばかりだ。積極的に選挙を変えてゆこうとして課題に挑戦する人も増えている。
街頭演説やふれあいが減れば利益関係者の密室でのやり取りとYouTubeやTwitterを舞台とした無責任な政治言論だけが飛び交うことになるだろう。とはいえ政治の側から「では戸別訪問を解禁しては」という提案も出てこない。戸別訪問は金権選挙が横行するとして反対論も根強い。
結果的に木村容疑者の行動は当初の意図とは逆の方向に作用したことになってしまう。
おそらく木村容疑者は、自分だけでは思考がまとめられず誰かの助けを借りようとした。ところがここで「問題を大きくすればきっと振り向いてくれるに違いない」と考えるようになっていったものと思われる。動機の解明が犯罪抑止につながるという期待もある。だが、もともとの動機があやふやなのだと考えると、おそらくこのアプローチでは事件抑止につながるような知見は得られないだろう。専門家の知見は犯罪者の合理性に依拠している。
県警は凶悪犯という結論ありきで「動機の解明」を目指している。専門家は「動機とやったことの間に乖離がありよくわからない」という。容疑者はおそらく自分が考えていることをうまくまとめることができていない。だからそれをうまくまとめてくれる「弁護士」が来るまで黙秘しているのだろう。だがおそらくそんな弁護士は来ない。これでは議論が全く成り立たない。
この中で最も悲惨なのはおそらく容疑者だ。
失われた30年の問題を考えるにあたっては過去との比較が必要だ。これが「格差」であればうまくいっている人たちとそうでない人たちが比較できるのだが、社会が全体として没落していった日本では比較ができない。比較すべき成功例がなく失敗例しか転がっていないからである。とはいえそれを言語化する能力も失われている。おそらく彼は「ゴドーを待ちながら」のように来るはずのない救済を待ち続けることになるだろう。