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鈴木宗男懲罰委員長が国民主権を無視して「有権者も反省しろ」と言い放ってしまう

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ガーシー議員の除名が決まった。今回はこの除名の是非については考えない。代わりに考えるのはなぜガーシー議員を周りが除名したかったのかである。国会議員たちは自分達の仕事を何か特別のものだと思っているのだろうということがよくわかる。それが端的に現れているのが「有権者も反省すべきだ」という鈴木宗男氏の発言だ。国民主権の我が国では誰が国会議員にふさわしいかは一人ひとりが決めるべきだ。国会議員にとやかく言われるような筋合いはない。

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鈴木宗男氏 ガーシー氏「除名」の理由と責任「本人はもとより、投票された有権者の皆さんも考えて」は失言だなと思った。日本は国民主権であり有権者の立場から見れば「誰に投票しようとこっちの自由だろう」と感じる。

この問題には3つの種類の人たちが登場する。「3つのバカ」では差し障りそうなので「それぞれの考えと狙いを持った方々」と言う表現に止めたい。

  • 政治家の名誉を守りたかった人たち
  • 名前を売りたかった人
  • とにかく破壊したい人

この中で最も伝播力が強いのはとにかく破壊したい人である。動機が純粋かつ単純だ。漠然の政治不信を背景に一定の支持者がいる。一方ガーシー氏は「なんだ名前を売りたかっただけか」「結局は身の安全を考えているのか」となった瞬間に商品価値がなくなった。極めて皮肉な話なのだがめちゃくちゃな理由で支持されているのだからめちゃくちゃな人であり続けなければならなかったのだ。

最後に残るのが鈴木宗男さんら国会議員のポジションだ。そもそも彼らはなぜガーシー氏を排除したかったのかは今回あまり注目されてこなかった。

ということで調べてみることにした。鈴木さんが語っている文章が見つかった。

鈴木宗男氏は「国会には国会のルールがある。国民から選ばれた国会議員は、国会に登院する義務がある。そんな公約をしている時点で、国民の目線からズレている。」と言っている。我が国の社会常識では正論でありなんの問題もないが、論理は破綻している。

いうまでもないことだがガーシー氏に投票した人も「国民」だ。つまり国民が単一の視点を持っているわけではなく「あくまでも国民の多数の目線からずれた少数者がいる」だけである。さらに言えば投票に参加しないという人もいる。つまり選挙に参加する多数の国民の目線からずれているだけということになる。日本でこれが正論と見做されるのは多数派が空気を作り少数派が従うという空気主導の社会だからである。

鈴木さんはおそらく誰が国会議員としてふさわしいのかは議員たちが決めるべきと思っている。だが、日本は国民主権国家である。つまり、残念ながら鈴木さんの考えは現行憲法の趣旨には沿っていない。

ただ国会議員は偉いというなんとなくの了解はある。ここで戦っても仕方がないので読み進めてみる。

鈴木氏は国会はネット遊びの場ではないと言っている。このネット遊びという言葉には「国会は神聖なものだ」という含みがある。これも世間一般の常識ではなんら問題がない。

ただ、その根拠は実は極めて曖昧だ。

「なぜオンラインではダメなのか?」という議論が出てくる。鈴木さんは「オンラインはゲーム感覚でモノをいう場だ」と断罪する。

それってあなたの主観ですよね?以外の感想は出てこない。

オンライン授業は対面授業より劣るのだろうか、登校と通信教育では同じテストの点数を取っても価値が違ってくるのか、出社さえすればあとは暇を潰すだけも給料や役員報酬がもらえるのかなど疑問は尽きないが、おそらく鈴木氏は「理屈を言うな」と主張するのではないかと思う。

おそらく鈴木さんは「国会議員は永田町にある議場という聖域に入ることができる特別な選ばれた人だから偉い」と考えているのだろう。だからそこにいない人が許せないのだ。

今回の除名騒動は実は「ある有権者が選んだ人を別の有権者が選んだ人が排除できるのか」という問題だった。だがその根拠は実は極めて薄弱である。「リアルの方がバーチャルより偉いから」という曖昧な説明しか出てこないのだ。

自民党多数派の代表者である世耕弘成参議院幹事長は勢い余って「憲法改正の予行演習だ」などと口走ってしまったようだ。多数派が少数派を排除する前例にしようと言っているわけで「本当にこの人たちは大丈夫なのか?」という気がする。

実際に議員がたちが偉いのは「議員たちが特別に国家に対する問題意識を持ち日本を良い方に変えることができる権限を与えられている」と見做されているからだだろう。リアルの場所にいるべきなのかそうでないのかは本質的な議論ではないはずだ。

今のルールでは国会議員は会期中は議場に拘束される。つまり地方にいて副業的な議員活動はできないということになる。つまり専業政治家を既得権で守っていると言えるだろう。確かに一つのやり方ではあるがこれが未来永劫正解であり続けなければならないということにはならない。「専業政治家による国政の独占」は政治が国民生活の現場から遠くなるということも意味している。

鈴木さんの発言に対する批判は瑣末な揚げ足取りに感じられるかもしれない。しかし、毎日政治に関する記事を集めていると危機感を感じる。

衆議院・参議院が議論のモデレーション機能を失いつつあり、政治問題はコンテンツとして消費され始めている。放送法の解釈変更問題が高市早苗大臣の辞任問題に収束していったのはその一例である。

ガーシー氏に対して立花孝志代表がどのような評価をしたのかはわからないがガーシー氏を応援しなかった。代わりに新しい女子の党首を連れてきて「彼女が党首になったらYouTubeのアルゴリズムで政治が出てこない人のところにニュースがおすすめされるかもしれない」と言っている。先の参議院議員選挙でも「当選するとは思わないが一票入れてくれたら250円もらえます」などと言っている。立花氏は政党助成金こそが政治運動の目的であるという。そして実際に2023年には3億3400万円をもらっている。

立花氏が言っていることもやっていることもめちゃくちゃなのだが、実際にそれで立花氏は3億円以上のお金をゲットできいる。つまり制度もめちゃくちゃである。さらに排除する側の理屈もめちゃくちゃだ。結局「リアルで会った方がオンラインより偉いから排除した」というだけの話だ。自民党に至っては改憲の予行演習だ!などと興奮している。多数派を握れば好きなようになんでもできるぞという認識があるのだ。

立花氏の動機が一番面白いのは、このめちゃくちゃな中で衝動が最も純粋だからだろう。結果的に政治ではなく「政治コンテンツ」の方が大きな関心を集めている。ガーシー氏排除のような回りくどいことをしても「ガーシー氏が当選した」と言う事実は変わらない。政治に意味を見出すことができなくなった人たちが一定数いてコンテンツとしての面白政治に期待が集まる。

現在の国会議員たちは単なるお遊びであるべきオンライン政治劇場に負けている。

ただ、社会がなんとなく動いている時には政治の不在は特に問題にならない。問題になるのは人々が疑心暗鬼に陥った時だ。アメリカとヨーロッパで数行の銀行が破綻しただけで大きな騒ぎが起きている。当局はシステム的な問題はなく金融市場は安全だと言い続けているのだが人々はそれを信用していないようだ。実際に預金の引き出しや株価の下落などが続いている。議論の不在は時に不安となって広がり思わぬ事態を起こす原因になる。

我々は先例から「政治不在」について多くのことを学ぶべきだろう。

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