蓮舫議員が衛藤晟一元少子化担当大臣のある発言を「辟易する」表現している。蓮舫議員らしい言い切りだなと思ったのだがなぜこれが「辟易するか」を考えてみるのも面白いと感じた。個人的の衛藤さんの「おっさん政治」は気持ち悪いと思う。ただしおっさん政治がそのまま放置されているわけでもない。超党派で人口減対策のための議連も作られており政治家の中にも「おっさん政治」からの脱却を目指す動きがある。
まず、元になった記事から確認する。衛藤さんは、地方に戻って子供を産んだ女性の奨学金を減免するという提案をしている。
現在奨学金を受けている人の割合が増えている。背景にあるのは日本の貧困化だ。徐々に高等教育にお金をかけることができなくなりつつある。奨学金の蔓延も少子化も政治の無策によるものだ。衛藤発言はこれを無視している。つまり政治は何もしてこなかったにもかかわらず、まだ一部の女性の問題だと認識しているのである。
岸田総理の発言からもわかるように、現在の政治は「いくらお金を上げたら女性は子供を産んでくれるの?」という次元から脱却できていない。岸田総理はこれを「異次元だ」と主張し顰蹙を買っている。衛藤氏の発言もこの延長上にある。現実を直視せず「まだなんとかなる」と思っている。
いうまでもないが、奨学金と言っても実態は単なる学資ローンである。つまり借金のカタに地方に戻り少子化対策に貢献しろと言っている。経済的強者が経済的弱者に特定の行動を押し付けているという傲慢さも感じる。
衛藤さんの発言は「従来のおっさん政治」が今も健在であるということをよく表している。政治家が自分達の無策については全く責任を取らず貧しさを利用して自分達に都合がいい行動を押し付けている。
確かに子育てを経験した人が「辟易する」気持ちはわかる。2007年の柳沢伯夫氏の「産む機械発言」から状況が進歩していないのだ。
女は子供を産むべきだと決めつけておりそれを変えるつもりがない。おそらく、世の中には産めない女性・産まない選択をした女性という人たちがいる。彼女たちをまるきり無視していて考慮すらしないという薄気味の悪さがある。
ロイターもこの発言を取り上げている。怒っているのは蓮舫さんだけではない。一番タチが悪いと一刀両断する学生もいたそうだ。
ただ今回の発言について辟易するというより薄気味の悪さを感じた。いわゆる「バカの壁」を感じたからだ。バカの壁はいくら動かしても動かない。つまり、実際には女性だけの問題でもないのだろうと思う。
頑なに意見を変えない高齢者と話していると精神が削られる。こ大抵の場合議論に疲れるのは合理的な提案をしている側である。バカの壁は合理性を無力感に変換する。だからバカの壁はうすきみが悪い。
女性は産む機械であるという発想の先には何があるのだろう。それは産まない女性は無価値であるという「生産性議論」だ。
この生産性議論が真に恐ろしいのは「生産性によって他人を断罪し合う」社会に陥る可能性が高いからである。つまり実は女性だけの問題ではない。
杉田水脈氏が典型だが、大抵の生産性議論は「他者」を裁き貶めるために行われる。つまり「産まない女は無価値だ」と「稼がない男は無価値だ」などありとあらゆる方向に「生産性議論が」向かい始めると社会は容易に分解してしまうだろう。「天賦人権」には実はこうした不毛な社会対立を防ぐ役割があるのだが、男性優位社会を生きていた高齢男性にはおそらくこの恐ろしさは理解できないだろう。
この生産性議論の不毛さについてはきっちり言語化しておいたほうがいいだろう。もっとも衛藤さんがこれを理解できるとは思えないのだが。
ただしこうしたおっさん政治を修正してゆこうという動きもある。野田聖子氏などが人口減対策への超党派議連を立ち上げた。
狙いはいくつかありそうだ。
第一にこれまで「将来の課題」として現実を直視してこなかった政治の認識を変える狙いがある。衛藤元少子化対策大臣のような悠長なプランではもはや現実に対応できない。
さらに少子化と言えば「女が子供を産めばなんとかなるんだろう」という話に落ち着きがちである。これを「人口減」と置き換えることで単に出産年齢の女性の問題ではなく社会全体の問題であると周知させることができる。与野党議員だけでなく地方議員や官僚などもメンバーとして参加するとのことである。