放送法の議論が泥沼化している。現在は高市vs小西と言う図式で語られているが政治家vs官僚の闘争であろうと思う。小西さんはその意味では役者の一人にすぎない。だが、この話を組み立てる前に一つ気になることがある。そもそもの放送法の不偏不党の趣旨ががよくわからないのだ。放送法は礒崎陽輔さんが言うように放送局や番組(サンデーモーニング)を懲らしめるためにあるのだろうか?
サンデー・モーニングで松原耕二さんが「放送法はもともと政府の政治介入を阻止するために作られた」と自説を展開していた。Quoraでもある漫画を題材にこの説を展開する人がいた。どうやらこの説はある程度は市民権を得ているようだ。ところが文献を探してもこれをバックアップするような資料は見つからない。
そもそも放送法の公平原則の意味漬の曖昧さ。今回の「事件」の根幹の一つだ。背景を調べてみた。
Wikipediaで調べると放送法は昭和25年に作られている。GHQの影響があったことは間違いない。この成立過程についてNHKの村上聖一氏がレポート「放送法第1条の制定過程とその後の解釈」を出している。レポートを読む限り戦争の反省を踏まえていることは確かなようだ。政府の影響を受けた戦争宣伝放送が行われないように配慮されている。
当時の日本はまだ戦前軍部が言論統制した記憶が残っており政府の放送管理に国民が抵抗を示していた。このため法案提出はかなり難航したようだ。政府は重ねて放送への干渉を否定している。民意の「国家権力」への警戒心はかなり強かったことがわかる。
ところがいったん法律が成立するとこの「不偏不党」が一人歩きする。さらに電波監理委員会が廃止され放送行政は郵政省の主管になった。この結果として「不偏不党」が放送局に課せられた義務であるという解釈が増えていったようだ。
ではそもそもなぜこのような揺らぎが生じたのか。一つは電波が公共財であり誰かがそれを管理せざるを得ないと言う事情がある。民主主義による自由な言論は保障したいがそのためのリソースである電波は限られているという現実的な制約問題だ。
ただ、そもそもGHQがどのような意図で「公平原則」を加えたのかがよくわからないと言う点も見逃せない。
実はアメリカにも似たような「ドクトリン」があった。フェアネスドクトリンと呼ばれる。フェアネスドクトリンについて調べると興味深いことがわかる。どうやらこれは単なる「判断基準」のようだ。法的に決められていたのはアメリカの放送事業がFCCによって管理されていると言う点である。アメリカの放送はFCC(連邦通信委員会)が放送電波を管理する仕組みになっていた。
あるラジオ局が「一方的な政治的主張」で苦情を申し立てられた。これを審査したFCCは「電波利用は公平ではならない」と改めて確認することにする。この時点ではこれは単なるドクトリンであり義務ではなかったようだ。
訴訟の多いアメリカはこのドクトリンが次第に裁判に利用されるようになったようである。Wikipediaの記述を読むと裁判所がドクトリンを理由に放送認可の取り消しを求めたと判断(ウォレン・バーガー・1969年)というものあるようだ。WLBT事件として日本でも研究している人(放送メディアへのアクセスと人権 魚住真司)がいる。公民権運動が盛んな時期で放送局がどのような政治的主張を扱い何を扱わないかというのはアメリカの世論を決定的に分断させかねない重要関心事だった。
このWLBT事件では放送免許の更新をめぐって地域住民が入った法廷闘争が行われ免許更新の判断が変えられている。
ケーブルテレビが普及したアメリカでは電波利用を使った放送メディアの規制はできなくなってしまった。もともと言論の自由との兼ね合いが問題視されたこともありフェアネスドクトリンは使われなくなった。本来の主旨が理解されているためそれを変更することができた。
一方、日本の放送法は全く別の歴史を辿る。日本の場合は「お上(役所)がOKしなければ放送局がお取り潰し」になるため放送事業者が総務省に逆らいにくいという空気が醸成されていった。もともと民主主義の涵養のために導入された不偏不党原則が次第に統治の道具に変化したことになる。さらにおそらくではあるが郵政省も許認可権限を利権だと認識するようになっていったはずだ。ある程度曖昧さがあった方が官僚には都合が良かったのだろう。
GHQの指示は本国アメリカの事情を参考にしたものと思われる。電波が限られている以上誰かが管理しなければならない。管理する上で「アメリカのような規制」がなされるべきだというのはGHQにとっては自然な発想だっただろう。だがそれゆえにその理由がきちんと説明されることはなかった。NHKのレポートが「GHQの意図は不明」としているのはそのためであろう。
憲法第9条にも言えることだが、放送法の公平原則ももともとの成立経緯とその後の運用が曖昧であるためにさまざまな解釈が生まれ好き勝手に議論されている。
おそらく放送業界には「本来は政府からの圧力から放送局を保護するための法律なのだ」と解釈する人も多いのだろう。一方「これをうまく曲解してけしからん番組を潰してやろう」と考える政治家も出てくる。日本人が議論をしないのはおそらくその方が自分なり好き勝手な解釈を守れるからだ。
いずれにせよこうした曖昧な経緯があるため、今回の議論は「高市さんが終わった」とか「小西はけしからん」以上の議論には発展しないだろうと予想できる。そもそも放送と公益の間の兼ね合いはさほど議論されておらず「まあ、そういうものなのだ」と理解されているにすぎない。
この後は全て憶測であり根拠がない。
この問題がなぜ今出てきたのかを考えると、そもそも自治省系と郵政省系に分かれている総務省の内部の問題と考えるのがよさそうだ。いつか使えるかもしれない爆弾だったのだろう。ただその内容がよくわからない。誰がどちらチームかはおそらく総務省の内部に詳しい人にしか解説できないだろう。
高市さんがこの件で辞任しなくても松本大臣にはすでに官僚の思惑がきちんと伝わっているはずである。「面倒なことをすると予算審議が滞りますよ」ということだ。ちなみにWikipediaで確認する限り、磯崎さんは自治省入省組で小西洋之さんは郵政省入省組だ。
高市早苗総務大臣もかつて郵政組との間に問題を起こしているようだ。突然の更迭 対立浮き彫り 高市総務相と日本郵政グループという記事にまとまっているが、日本郵政から郵政組を排除しようとしたという試みだったようだ。
菅総理時代にも郵政省接待問題が起きている。菅総理の息子が関与しているとして話題になったが、この時には山田真貴子内閣広報官が辞任し「総務省の次期事務次官候補だったエリート中のエリート、谷脇康彦前総務審議官」が辞任に追い込まれている。どちらも郵政組だったようだ。
つまりこの手のことはしばしば起きている。面白おかしく語られることはあるが主要なメディアはこの問題について語りたがらない。
高市サポーターは「官僚を洗い出して調査すべきだ」と盛んに主張しているが、昨日の国会答弁を聞いている限りお互いに誰が関係しているかはあらかたわかっているようである。その人たちの顔ぶれを見れば「誰が不満を持っていたか」がわかる人にはわかる。そしてわかる人にさえメッセージが伝わればいいのである。
予算は衆議院を通過したために自然成立する。しかし参議院で審議が難渋すれば政権は面目を失うだろう。政権に適度な刺激を与えるためにはちょうど便利な頃合いだ。「わたしたちを蔑ろにすると予算審議が難渋しますよ」と言うメッセージは政権幹部にはもう伝わっているものと思われる。
小西さんも元々は総務官僚なので「キャスト」の一人である可能性が高い。一方立憲民主党の泉代表が「文書の真偽について言及を避け続けていた」ところからこの話の報告をきっちりと受けていない可能性がある。
ネット保守もバックグラウンドノイズとして官僚に利用されただけという可能性が高い。
ネット世論的には「裏切り者を炙り出せ」ということになっている。だが松本総務大臣は文書は本物だが内容に精査が必要としか言えない。一般的には総務官僚が文書改竄することなどあり得ないと言いつつこの事例については明らかではないという苦しい答弁に終始していた。関係者の処分は難しいだろう。パンドラの箱を自ら開けるわけにはいかない。そして高市さんも小西さんも松本さんもそのことはよくわかっているのではないだろうか。
そもそもの放送法の趣旨が明確でないという事情を背景にし「将来のネタ」として磯崎さんと高市さんは泳がされていた可能性がある。だが、その内情が語られることはないだろう。お取り潰しは放送事業者にとっては一大事だがその命運は全て総務官僚が握っている。