メドベージェフ前大統領のテレグラムでの呼びかけが波紋を呼んでいる。ロシアがポーランドに侵攻すると読み取れるからだ。ロシア軍はポーランド国境まで前進しなければならないと主張しているのだが、これがどこで止まるのかがよくわからない。ロイターやアルジャジーラは「国境を押し戻す(push back)」と理解している。ロシアはモルドバに対しても警告を発しているため全く可能性がないとも言い切れない。落とし所を考えたのだがあるいは全部めちゃくちゃになってしまばいいと考えているのかもしれない。ロシアが抱えてきたヨーロッパに対する劣等感からくる痛みに向き合う必要がなくなるからだ。
AFPの記事は「ロシア前大統領、勝利しポーランド国境まで進軍も」と書いている。「まで」なのだから素直に読むとつまりポーランド国境で止まるということになる。だがロイターの記事を読むと「国境を押し戻す」と書かれている。つまりモスクワの安全が確保できるまで前進は止まらないぞという意味で、英語ではpush backになっている。アルジャジーラも同じ内容で記事を書いている。こちらもpush backと表現している。
ポーランドはかつてドイツとロシアに分断されていた歴史を持っている。つまり旧ロシア帝国の支配地域を取り戻すといっていると理解できる。ポーランドが合意するはずもないのだから「軍で脅して」ということだ。
「これに負ければロシアは引き裂かれる」ともいっている。支援者と一体となって冷静さを失っていることがわかる。ソ連崩壊時代からの経験が集団内で培養されある種の恐怖となって共有されているのだろう。ソ連崩壊は終わった話でありロシアが「引き裂かれてなくなる」ことはなかった。だがそれを総括できない人はその苦痛を永遠に感じ始める。そしてそれを止めるにはどうしたらいいのかということを考えた結果「そうだ、成功しているものをめちゃくちゃにすればいいのだ」と考えてしまうのだ。
すでに「偉大なロシア帝国の復興」という幻想が振りまかれておりそうした幻想に囚われた一部の国民のために多くの兵士が使い捨てになっているのだろう。ただ背景には「経済さえ混乱しなければ政治にはあまり関心がないし面倒なことには首を突っ込みたくない」という大勢の国民がいるものと思われる。ノーベル平和賞を受賞したロシアの団体は「ロシアの病は国民の無関心だ」と指摘している。無関心と極端な思想の組み合わせが集団暴走を生むことがわかる。おそらくこの二つは車の両輪のようになっているのだろう。
さらにNHKはプーチン大統領の東ドイツ時代のトラウマについての記事を書いている。東ドイツ時代にKGBとしてシュタージに協力していたプーチン氏は市民革命に追われるようにして東ドイツを後にした。これがトラウマになっているというのである。
この戦争は個人的なトラウマが共通の経験を持つ集団に伝播・共有して暴走しているという側面がある。さらにロシア軍の実力が過大に評価されており「3日もあれば」と当初は考えられていた。感情に彩られているからこそ常識はずれのことが起こる。そして一度それが表層化してしまうと誰にも止められなくなってしまうのだ。
国連や西側先進国はこの暴挙を止めることができていない。国連総会は即時停戦を呼びかける決議を採択したが中国とインドは棄権した。中国は独自に停戦案を提示している。中国はこの紛争を西側とロシアの対立と見ており支援をしている西側にも批判的だ。また国境については「双方が話し合うべきである」として明言を避けている。実際に実効性のある停戦案を提示したというよりは「西側の一方的勝利は認めない」という宣言だろう。
東京裁判など第二次世界大戦の戦後処理は列強先進国が新しい世界秩序を作るための取り組みだった。しかし「世界」という枠組みにするためにインドや中国などを参加させている。つまり、当時の中国やインドは列強戦勝国にとってはたんなる演出の小道具だった。しかしながらロシアのように暴走する国が出てくると「我々にも大国の権利を認めよ」と言いやすくなる。
当然NATOやEUは中国の提案には否定的だ。表向きの理由は中国がロシアに近すぎるというものだが、中国が調停に成功してしまうと世界の裁判官と価値観の守人という地位を維持できなくなるという切実な事情がある。世界秩序は大きく変わりつつある。戦後、G7メンバーとしての地位を享受してきた日本はここで外交戦略を間違える世界的な地位が大きく揺らぐことになるだろう。
ポーランドへの脅威は必ずしも絵空事とは言えない。ロシアは親欧米路線を強めるモルドバを支援している西側先進国を警告している。モルドバにある親ロシア派地域を侵食するようなことがあればそれは我々への攻撃になるという警告である。モルドバには沿ドニエストル(トランスニストリア)という親ロシア派地域がありロシア軍が既に駐留している。ヨーロッパ最貧国のモルドバが西側に接近して豊かになるのは許せないという非常に身勝手な主張である。
ロシアはソ連崩壊を通じて東側世界の盟主という地位を失った。ロシアから離反した国々が貧しいままに留め置かれていればロシアの怒りは慰められたのだろう。だが東ヨーロッパの国々はEUと一体化し次第に豊かなった。さらにその成功例に刺激され同調する国も増えている。これがプーチン大統領の個人的なトラウマを核にして膨れ上がっている。
ロシアは超えてはならない一線を超えてしまったことでこの痛みと怒りを隠す必要がなくなった。このためモルドバに対する恫喝やポーランド国境押し戻しも全くないとは言い切れない状態である。一旦表層化したものを止めることは非常に難しい。
中国はこうした「ならずもの」を仲介する役割を担うことで武力行使なき現状変更が行えるかもしれないと期待しているのだろう。ただロシアの暴走が個人のトラウマと集団のトラウマの合成物と考えると「火遊びの代償」はどの国に国にとってもかなり重いものになるだろう。
そう考えるとメドベージェフ氏の発言には具体的な計画も落とし所もないのかもしれない。自分達は成功できなかったという怒りがおさまらない限り「ポーランドの次はどこだ」というようなことになってしまう。あるいは、メドベージェフ氏と支持者たちは「ヨーロッパ全部がめちゃくちゃになってしまえばいい」と考えているのかもしれない。そうすれば自分達の劣等感と向き合わなくて済むからである。