就職氷河期という言葉が生まれたのはバブル崩壊後すぐのことだった。ちょうど1992年から1993年ごろに当たる。それから30年経って日本はついにこのポストバブル期を終えた。政治経済系の記事を読むと「人手不足が深刻化」などと書かれており日本は「詰んだ」状態にある。
ただ一人ひとりの労働者の視点から見るとまた違った景色が見えてくる。
一口に人材不足と言ってもその内容はさまざまだ。全体としては5割の会社が人手不足を感じているのだが特に非正規効用に依存してきたサービス業に深刻な影響が出ている。旅館ホテル、8割が人手不足で過去最高水準 企業全体では5カ月連続で5割超と帝国データバンクがまとめている。地方からの集票に依存していた自民党にとっては深刻な状況と言えるだろう。非正社員が足りないという産業は全体の3割に過ぎないが業種別に見ると旅館・ホテルや飲食店などのサービス業が多く偏りが見られる。
ホテルや旅館は人手不足でパンクしそうな状態になっている。産経新聞が「ホテルや旅館が人手不足でパンク状態 長引いたコロナ解雇の落とし穴」という記事を書いている。またJR北海道は通勤・通学時間帯のバスをを維持できなくなっている。定年退職で人がやめてしまったものの代わりになる運転手が確保できていない。
ホテルや旅館などの需要は政府からの補助に支えられている。いつまで補助が続くのかわからない。このため待遇の改善が難しいと感じている経営者が多いようだ。JR北海道バスの運転手を確保するため北海道は補助金を検討しているそうだ。しかし待遇を上げたからといって運転手が来てくれる保証はない。さらに補助金頼みの公共交通網の維持がいつまで続けられるかはわからない。補助金による補填というこれまでの政府や地方自治体の政策はこのように「詰んだ」状態になっている。これまで労働者側の視点を軽視してきたツケといえるだろう。
ここまでは「なんだ地方の問題か」と思える。視点を広げてみよう。ITMediaビジネスは大手の賃上げで広がる格差 人材流出に苦しむ中小企業、採用難にどう対応する?という記事を書いている。
人手不足を背景に大手企業は賃金を上げ始めている。だが中小企業は賃金を上げられない。ただでさえ少子高齢化が進んでおり2025年から2035年までの間に562万人の労働者がいなくなるそうだ。このため、中小企業はますます労働者不足に苦しむことになるだろうと言っている。この問題は副次的に別の問題を生み出している。
人手不足に対応しようとDX化を推進している企業は多い。このためシステムエンジニアも不足している。引き合いは多いが対応しきれていないのが現状なのだという。
元々IT業界の課題は「2025年の崖問題」の解決だった。政府がDXという新しい需要を創り出すために打ち出した概念だ。国民的議論があったわけではなく経済産業省のレポートがきっかけになっているため何を目標にしていてどんな意向プランを持っていたのかは全くわからない。この計画はあまり注目されてこなかったが実は「破綻寸前」のようである。
この政府主導で作られた「2025年の崖」問題はSIerを太らせただけで問題の本質的な解決にはつながらなかったとの指摘がある。SIerは単に工数を稼げれば良いと考えたため業務改善につながらなかった。
さらに基幹業務の置き換えも進まなかった。仕様書のないシステムが多く解析にはCOBOLエンジニアが必要だ。すでに大量退職が起きており将来なくなってしまう言語を新しく覚えるエンジニアもいない。現在は「漠然と仕事探しをするのではなく将来需要の高い言語を見極めて転職しよう」というITエンジニア向けのテレビCMが盛んに流されている時代だ。ITエンジニアの需要が高まりエンジニア側の意識も高まっていることがわかる。こうした環境下でCOBOLに魅力を感じる人はそれほど多くないだろう。
このためバッチの基幹システムはJR北海道の運営するバスのような状態になっている。いわば「見えない地方」である。金融機関から小売までこの過疎化しつつあるインフラに支えられている事業は多い。また政治はこれを自分たちの課題とは考えていないはずだ。金融機関が障害を起こしても「指導」して終わりになる。
企業と労働者の間の乖離はかなり大きいようだ。労働搾取型のポストバブル世代と違い「成長と高付加価値の獲得」を求める労働者が多い。30年という過酷な環境は労働者を進化させたが企業と政府の意識は変わらなかった。さらに問題を先送りし続けてことで複数の問題が積み重なり複合化している。政府や社会の視点に立ってみると次第にゲームオーバーが見えてきたという状態だが「ポストバブルの子供たち」ともいえる労働者が何を求めているかがわからない。
だがポストバブル期の搾取構造から抜けられない先輩たちを見て育った「ポストバブルの子供たち」の意識は着実に変わりはじめているのだろう。現在の労働者はスキル上昇が見込めなければ「市場価値が落ちる」と考えてその企業を辞めてしまうようだ。また政府が労働市場の実態に合わないリスキリングプランを準備したとしても労働者が魅力を感じることはあまりないはずだ。失業の心配のない官僚が準備したプログラムは「所詮他人事」だが、自分のキャリアプランは究極の自分事である。意識の乖離は埋めがたい。
中小企業では10人採用して10人が辞めるという事態が多発しているそうだ。
さらに少子高齢化による社会保障費の伸びも労働者調達のネックになっている。実は時給を上げても人手不足がうまならないという状態が進んでいる。時給上げても人手不足に 「年収の壁」対応急務 春闘という記事を時事通信が書いている。
日本の労働者には正規雇用と非正規雇用という身分格差があるとされる。だがこのほかに主労働と補助労働というべき分担がある。同じ労働者といっても家計を支えるために働く人と家計の補助のために働く人がいるのだ。
このうち補助労働を担う人は103万円の壁と130万円の壁を意識して労働時間を制限してしまう。このため時給を上げてしまうと余計に人手が足りなくなるという悪循環が生まれているという。「制度の抜本的な改革が必要だ」と時事通信の記事は結んでいるが、それが何を意味しているのかは書かれていない。「抜本的な対策」の意味は大抵「何をやっていいかわからない。手札を全部変えないとポーカーに勝てない」というのと同じ意味である。背景にあるのは標準家庭の呪縛というまた別の問題である。
労働組合もまた「取り残される側」にいる。さまざまな分野でさまざまな理由の人材不足が起こっている。かつては労働組合がその実態を把握していたはずだ。だが長年「搾取型社会システム」の一部として機能していたため現在の労働組合は労働者を代表していない。
この延長に立憲民主党・国民民主党などの野党があると考えると事態は深刻だ。政治が問題を把握できないということを意味している。政治は業界団体を通じてしか問題を把握できないが、現役労働者側も忙しすぎるためとても政治のようなコスパの悪い活動には参加したがらないだろう。スキルアップのために時間を費やした方がタイパがいいと感じるはずである。このためミスマッチが解消できない。
永遠に続くと思われていたポストバブルの「やりがい搾取型」の経済は転換期にある。1992年ごろに始まったと考えるとだいたい30年間続いたことになる。原因は人口の多い世代の大量退職と新型コロナ禍である。これはアメリカとほぼ同じだ。アメリカでは急激な人手不足と賃金の増加によるインフレが起きた。一方日本は地方を中心とした地域社会の崩壊と基幹システムの機能不全という別の表現になりそうなのが興味深いところである。
一人ひとりの労働者と社会の見え方は違う。ジャーナリズムの表現は社会の側に立っており「どうする人手不足?」という論調になっているものが多い。
一方の労働者の側の視点はあまり語られることはない。おそらく気がついている人はこれをチャンスと捉え「自分を高く売るにはどうすればいいか」を考え始めるはずだ。だが、やはり現在の労働者の視点をきちんと代表してくれる政治的な固まりがこの国に存在しないという事実は残る。またその弊害も決して小さくないように思える。