AFPがウガンダ人のムサ・ハサヒヤ・カセラさんのニュースを扱っている。妻が12人いて子供が102人いるそうだ。「少子高齢化のヒントになるんじゃないか」と考えたのだが日本とはあまりにも状況が違い過ぎた。この事例のみを参照すると女性から教育を奪い人権をなくせば少子高齢化対策になることはわかる。おそらくここで考察を終えると各方面から批判が殺到するだろう。
実は「その先」が重要なのではないかと思う。
もともとこの記事はイギリスの大衆紙the Sunが発掘してきた話題のようだ。大衆紙なので特に問題意識は持っていないのではないかと思う。単に一夫多妻制を面白がっているだけである。the Sunが取材した当時は67歳だったがAFPの取材では68歳のムサ・ハサヒヤ・カセラさんだがまだ夜の営みがあるのだろう。だから妻の避妊が必要になるのだ。
ムサ・ハサヒヤ・カセラさんには妻が12名おり子供が102名いる。さらに孫は568人である。これを真似すれば少子化対策ができそうだ。まずどんな人なのか見てみよう。
ムサ・ハサヒヤ・カセラさんは東部ブタレジャ県ブジサ村に住んでいて8000平方メートルの土地を持っている。現在は無職だがもともとは家畜商・食肉処理をやっていた。この肩書きに惹かれて多くの村人が娘と結婚してやってくれとやってきたそうだ。
3番目の妻のザビナさんは「他に妻がいると知っていたら結婚に同意しなかったろう」と言っている。実はウガンダには「婚資」という言う慣習があり妻は「子供を産む資産」とみなされている。このため女性に発言権はない。やってきたのは「村人」である。つまり妻たちの父親だ。
最初の妻は2人しか子供を産むことができなかったため「たくさんの妻と結婚してたくさん子供を作るように」勧められたそうだ。せっかくお金を払ったのに「2人しか子供を産まなかったのか」ということが問題だったということなのかもしれない。血の繋がった子供が財産と見なされていることがわかる。
ここまでを見ると、女性を子供を産む機械とみなし教育と人権を奪った上で男性の経済力を高くすれば少子化対策をすることができるということがわかる。さらに言えば結婚はもともと「男性が子供を産む装置である女性」を管理するための仕組みだ。つまり他の男性の子供を育ててしまわないように男性が自分で守っているのだ。
おそらくここで考察を終えれば各所から非難が集まることになるだろう。さらにその先に話を進めよう。
ウガンダの最新のインフレーション率は10%程度である。ウガンダも新興国インフレに悩まされており中央銀行が利上げをおこなっていた。だがインフレの抑制にある程度目処が経ちつつある状態だ。またウガンダの一人当たりのGDPはタンザニアよりやや劣る程度でありルワンダと同程度だ。つまり近隣諸国の中で特に貧しい社会ではない。驚くべきことにウガンダのジェンダーギャップは日本より低い。
NHKがウガンダの女性が置かれた環境について仲本千津「ウガンダで目指すジェンダー平等」という記事を書いている。仲本さんはウガンダで縫製工房をやっている。
仲本さんによればウガンダでは社会格差が広がりつつある。都市部には富裕層がおり日本以上に男女のバランスが取れた社会になっている。女性の職場環境も整えられており実はジェンダーギャップ指数はウガンダの方が日本よりずっと女性平等が進んでいる。国会議員の34%は女性である。
問題は格差である。
仲本さんによれば地方には全く別の世界が広がっている。男尊女卑の考えが残り暴力もはびこっている。また女性が子供を連れて家を出ることも多いそうだ。17才以下の子供の20%が母子家庭で育っておりその数は日本の3倍に当たるという。ムサ・ハサヒヤ・カセラさんの記事には「妻が二人どこに行ったかわからない」と書かれている。つまり食べられなくなった妻はおそらく都市に流れたのだろうということがわかる。
ムサ・ハサヒヤ・カセラさんが子供をたくさん作れるのは「食べられなくなった妻が出てゆく可能性がある」からである。おそらく困窮したままで残れば飢え死にというケースもあるはずだ。そもそも、ハサヒヤ・カセラさんは子供の名前を全て把握しているわけではないようだ。妻たちに名前を聞かないとわからないことがあるそうだ。子供の目録のノートができていてそのノートを見なければ子供の名前が把握できない。出て行った妻は「よくわからない」ということだ。妻はたくさんいるのだからそれでもかまわないのだ。
NHKの記事には「彼女たちはなんらかの事情を抱えて都市にやってくる」と書かれている。農村部では無料だった家賃、食費、医療費。教育費などのあらゆる生活コストがかかってくる。これが近代化した社会の実情である。彼女たちに働く場所を作るために縫製工房を作るというのが仲本さんの仕事だ。だがおそらく社会が発展すればするほど生活コストは膨らんでゆくだろう。それを支えるためには女性が経済的実力をつける必要がある。またそれを支えるために社会がどこまでも経済発展するしかない。
仲本さんはウガンダの女性を助けようとしているが、ある程度経済的に自立できた女性はおそらく子供を産まない選択をすることになるだろう。発展途上国から先進国になった国が一度は経験する少子化社会だ。生活コストがかさみ女性は子供を産まなくなる。
当初この記事に注目したのは「少子化対策に何か役立つヒントがあるのだろうか?」と考えたからだった。だが妻に人権がなく福祉や教育という概念がないことで子供の数が増えていることがわかる。だから「養えるかどうか」は考えずに子供を作ることができるのだ。これはとても真似ができそうにない。
さらに、ある程度発展した社会は一度は少子化に向かうことになる。つまり我々がいるのは子供を産み育てる上で最も不効率な社会なのである。
では社会はここで終わってしまうのか。結婚に別の機能を持たせている社会がある。それがアメリカ合衆国である。
アメリカにはお金のある人がたくさんの養子をもらい実子も育てるというケースがある。ブラッドピットさんとアンジェリーナ・ジョリーさんの間には6人の子供がいる。養子と実子が含まれている。ブラッド・ピットはすでに離婚しており家の主人はアンジェリーナ・ジョリーさんだ。ブラッド・ピットは離婚後も実子3人の父親を「担当」している。
これは結婚が本来の意味を失い極めて高度に演劇化している事例といえる。平たい言い方をすると「結婚ごっこ」「家族ごっこ」社会である。「ごっこ」なのだからパートナーが男性同士の同性婚でも構わない。ごっこという言い方がいやなら「ジョイント・パートナーシップ」とでも言えば良いだろう。同じことだ。
アンジェリーナ・ジョリーさんに経済的な能力が高いため、養育単位が「パートナーシップ」である必要もない。ただおそらく男性の側には「血縁維持」という本能があるはずだ。ブラット・ピットさんには苦痛な体験だった可能性がある。また全ての女性がアンジェリーナ・ジョリーさんのように高い経済的能力を備えることができるとも思えない。
このように「極端なケース」を考えると、社会にはいくつかの選択肢があるということがわかる。
- ウガンダの農村のように男性の権限が極めて強い社会がある。この社会を選択すると女性は一定の生活保護を受けることができるが、近代的な意味での人権を持つことはできない。また男性の経済的能力が崩壊すると「群れ」が崩壊するリスクがある。
- 今回は触れなかったがおそらく「女性が家長」という社会もあるはずだ。だがこうした例が少なくとも近代社会にあまり見られないことから何らかのデメリットが多かったのではないかと考えられる。女性優位の社会では部族間の闘争に勝てないのかもしれない。
- 男性女性という性別に関わらず単独でも経済的自立ができる社会もあるはずだ。男性に頼らなくても子供を育てることができるため単独養育者の選択肢が広がる。ただし単独での子育てはおそらく経済的にはあまり有利に働かないだろう。男性にせよ女性にせよ家事と家計維持を一人でこなすことになる。規模の経済が働きにくい。
- 結婚から血縁維持という機能を外した社会が考えられる。ここでは結婚は「ごっこ」になる。だから同棲同士のパートナーシップでも構わない。ただアンジェリーナ・ジョリーさんの例を見てもわかる通り男女のパートナーでも構わない。実子が混じる構成も問題にはならないが、血縁維持という本能を持っている男性にとってはストレスの溜まる環境になる可能性がある。いずれにせよパートナーシップ制度は社会的に認められる必要があるだろう。
どの制度にもメリット・デメリットがある。選択肢を増やせば増やすほど少子化の対策としては有効だろう。だがどの制度にも心理的反発が生まれるはずである。それだけ「結婚や家庭はこうあるべき」という社会通念は我々を強く縛っている。
ここで最も重要なのは「男性が困窮化した状態で血縁に基づいた結婚という制度を維持しようとするのが(経済効率の意味では)最悪の選択肢だ」ということだ。現在の状態は「男女が一対となった結婚という制度」を中途半端に温存させようとして最も不効率な選択をしているということになるだろう。単に孤立した経済単位を温存しようとしているに過ぎない。
もちろん社会的に細かく調整してこの単位を温存することはできることは可能だろう。だがこうしたソーシャルエンジアリングは実現していない。だから日本は少子高齢化が進んでいる。
もちろん、この不効率な制度を不効率な状態でどうにか維持することは可能だ。その場合には孤立しがちな「世帯」を社会福祉で支える必要が出てくる。血縁関係に基づいた孤立した世帯を維持するためには膨大な社会コストが必要になるだろう。そしてそれが負担できなくなった時その社会は崩壊してしまうはずだ
今回例示したケースは二例とも極論にすぎない。だがこうした極論を参照すれば見えてくるものも実は多いのではないかと思った。ただこれを実現するためには我々が今持っている社会通念を超克してゆかなければならない。