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急かされて「原発60年超運転」を許可した原子力規制委員会とは一体どんな存在なのか

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電力不足を背景に「60年以上経った原子力発電所も運転できるようにしよう」とする規制委員会の方針転換が発表された。異例の多数決判断だったという点がニュースのポイントになっている。ただ、このニュースを見て誰が責任を取るんだろうか?と思った。さらにこれを調べていて「原子力規制員会とは何者なのか」が気になった。

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ニュースのポイントは「原子力規制委員会が原則40年で停止し最長でも60年にする」方針を転換し「60年以上でもOKにする」と決めたというものだ。本来なら全員一致が原則だが石渡明委員が反対したために異例の多数決になった。さらに杉山智之委員も「急かされて議論した」と言っている。

つまり政府に言われて嫌々やりましたという態度を滲ませているのである。

これについて一通り調べた最初の反応は「福島のあの惨事を見たにもかかわらず安全基準を蔑ろにするのか」というリベラル的な憤りだった。ただ「リベラル的な反原発の主張は受け入れられない」という実感もある。「直接的に怒りを表現するのは得策ではないんだろう」という自己抑制が働いた。

人権や環境保護といった話題は社会から受け入れられる余地が少ないという実感がある。

このニュースを最初に見たのは共同通信だった。どちらかというと政府を監視する立場が滲む媒体だ。日経新聞のような財界・政府寄りメディアはさぞかし肯定的に書いているのだろうと疑って記事を探して読んで見てみたのだがこちらもやはり心配しているようだ。

日経新聞も肯定的に書けないほどの判断なんだなと驚いた。

政治判断が求められる場面で「専門家のせい」にするという手段はもはや政府の常套手段となっている。最近ではマスク解禁がそれにあたる。政府は「政治判断」とは言わず「専門家に御検討いただきました」と説明したがる傾向がある。元大阪府知事の橋下徹さんはマスク解禁について「政府の責任放棄」と指摘している。

橋下徹さんは「なんとなくの感覚」でやっていると指摘している。だが、実は今回の規制委員会でも同じような発言が見られた。石渡明さんは「科学的、技術的な新知見に基づくものではない。安全側への改変とは言えない」と言っておりこれが議事録に残った。

安全側への改変とは難しい言い方だが、新しい科学的知見が出てきて「原発が安全だ」という側にシフトしたわけではないんですよと言いたかったのだろう。何も変わっていないのだから判断は変えられないというのはとてもまともな判断であり、逆に他の人たちが「何も変わっていないのに政治的な状況から判断を変えた」といっていることになる。

マスクをめぐる専門家委員たちと原子力規制委員会の違いはどこにあるのか。それは実際に権限を持っているかどうかの違いである。ではどうして「権限を持った機関」が作られたのかというのが次の疑問になった。

実は原子力規制員会は民主党政権下で作られている。これは福島の事故の反省を踏まえたものである。今回リベラル系のメディアが反対している理由はおそらくそこにある。民主党政権の決定を自民党・公明党が骨抜きにしていると言いたいのだ。だが電力不足という現実があるうえに、2012年以降リベラル運動が徐々に衰退してきている。このため、反対意見が表明しにくいのだろう。

2012年発足当時の官邸の説明を読むと「さまざまな省庁にあった機関を統合し環境省が統括する形で集約した」と説明されている。特に原発推進の経産省からの独立が強調されている。また法案成立当時の経済産業大臣は枝野幸男氏で「経済産業省とは独立して安全性を検証する」という明言していた。

つまり「独立した機関」として権限と責任を明確にしようとしたのだ。

野田政権の時にも判断は原子力規制委員会が行うということになっていた。当時野党だった自民党の塩崎元官房長官は「これは政府の責任放棄であり最終判断は経済産業大臣と総理大臣が行うべきだ」と主張する。つまり当時の自民党は「責任は内閣が追うべきである」として民主党政権を攻撃していた。

では、実際に政権を奪取した自民党・公明党政権は政治責任を明確にする方向に動いたのだろうか。おそらくこれが今回の問題の本質なのだろう。

マスク行政でも逃げ回っている岸田政権が原子力行政で積極的に政治判断に関与したという様子はみえない。規制委員会に圧力をかけて「政府の政策に沿った形で決着させる」ことにした。責任を取らされる立場で取り残された原子力規制員会も様々な方法で「実は政府に責任を押し付けられたんですよ」と情報発信している。お互いに「責任を押し付けあっている」ことになる。

次に原発推進と安価な電力確保の観点からこの問題を見てみることにした。やはり地元の懸念を払拭し発電事業者にも安心して事業に取り組んでもらうためには、政府が積極的に関与し、技術的な支援を与えた上で、お墨付きを与えなければならない。内閣はここから逃げており、実際に承認を出す側の規制委員会も及び腰である。おそらく規制委員会は総論は許可したものの各論では反対し続けるだろう。

そのリスクは誰が追うことになるのだろうか。そんなことを考えていて「そういえば東電の旧経営陣が訴えられていたな」と思った。裁判は二つあるがあれはどうなったのか。

一つは業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴された事件だ。2023年1月に高裁判決が出ている。地裁・高裁共に無罪判断である。NHKによると無罪の根拠になっているのは「国の機関が公表した地震の予測」の評価だ。

一方で民事裁判も抱えておりこちらは4人が対象になっている。2022年7月に地裁判決まできているのだがこちらは13兆円の賠償命令が出ている。

両方とも同じことを争っているのだがBBCによると民事の方がハードルが低く長期判断を根拠に「事故は予見可能だった」と言っている。つま同じ「国の機関が公表した長期予測」を巡り異なる判断がでていることになる。その程度には曖昧な「基準」だったということだ。

東電の事業者はこの曖昧さを全て引き受けて自分達のリスクで最終的な運転可否を判断する必要があると言われているようなものだ。

会長だった勝俣さんは82歳になっている。一度何かが起きると政府も専門家も責任は取ってくれず、独力で裁判に縛られることになる。とはいえ東京電力の旧経営陣が負えるような責任ではない。個人で13兆円など払えるわけもない。さらに福島の事故は大きな非可住地域を残し廃炉の問題も目処が立っていない。

政府が責任を取らずに個人に判断を一任するという姿勢はマスクから原発まで一貫している。つまりこれをまともに捉えると「何も判断しない方がいい」ということになる。

今回規制委員会は政府の圧力にさらされて総合判断から逃げることができたが各論では逃げられない。また、経営者も責任から自由になることはできない。つまり総論ではOKということになっても各論で運転に踏み切れないという事業者が出てくるはずだ。

あなたのその決済で「一生裁判を抱えることになるかもしれませんよ」ということになってしまう。誰がハンコを押したいと思うだろうか。

リベラルの立場から見ると国土の一部が二度と住めなくなっても誰も責任を取らないという憤りがありそれに応えてくれる人はいない。一方で推進派の立場に立っても「安全・安心宣言」は誰も出してくれないし実際には出せないということがわかる。

今回は総論60年以上がOKということになった。おそらくそれ以上の意味はないものと思われる。

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