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宮台真司氏襲撃犯が捕まらなかった理由があきらかに

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宮台真司東京都立大学教授を襲撃したと見られる容疑者が自殺したと見られるという報道があった。大手メディアは年齢と家族構成のみを伝えている。周辺報道をしている週刊誌もありネットでも「特定厨」が活動しているようだ。

容疑者が捕まらなかった理由はあまりにも明確だった。この人は社会的にほぼ完全に透明だったのである。なぜこんなことになったのか。

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メディアでも積極的に情報発信をしている宮台真司東京都立大学教授が襲撃されたのは11月29日だった。警察は公開捜査としたが情報が全く集まらない。結局のところ自転車の購入履歴を追いかけることになり1月30日に容疑者の特定に至った。ところが、この時すでに容疑者は自殺していた。公開捜査が始まった12月12日から元気がなくなり12月16日に亡くなってしまったのだという。

仮にこの容疑者が「言論」に関して興味を持っていたなら、何らかの書き物を残していたはずである。だがそれは見つかっていない。パソコンは処分されたとみられており彼が何を考えていたのかを知る手がかりはない。少なくとも社会に対して何かを訴えかけたり働きかけたりするという意欲はなかったようだ。あるいは膨大な情報を消費はしていたが全くアウトプットができる状態ではなかったのかもしれない。

リビングには父親が購入した宮台さんの共著作書籍が置かれていたという。あるいは「宮台さんもこう言っている」というような言葉に対する反発が犯罪の動機だった可能性もある。つまり強い言葉で一方的に何かを語りかけるような著作が一人歩きした可能性は高いのだ。他者に対して断定的てあればあるほど利用されやすい。誰かに何か言って欲しい人が大勢いるからだ。

ただし宮台さんご本人にはそのような意識はまるでないようだ。遺書がなかったこともあり宮台さんは「釈然としない」と戸惑っているという。日本社会にどんな動機を持っている人がいるのかを分析するのに役立つはずだとしてフィールドワークの対象としては興味を持っているようだが、それよりも「どんなニーズで本が利用されてきたのか」を自分ごととして周辺読者に聞いて回った方が良いように思える。

NHKの事件報道見るとなぜ容疑者が捕まらなかったのかがよくわかる。社会との接点がまるでなかったようだ。その後のYahoo!ニュースのコメントも併せて考えると「人生の失敗は全て家庭のせいだ」というような決めつけが社会に蔓延している様子もわかる。

まず容疑者にはほぼ社会的な接点がなかった。昭和56年生まれで高校二年の末に退学しているそうだ。おそらくSNSのアカウントも見つかっていないのだろう。オンラインでもオフラインでも社会との接点がなかった。だから足がつかなかったのだ。

ただし「社会的な接点がない」ことだけが極端な行動の理由になるとは考えにくい。

新潮と集英社はすでに周辺情報を書いている。こうした周辺情報を元にしてネット上の特定厨と見られる人たちが「正体を暴こう」とする。どちらの記事にも「情報を募集しています」という記述があり興味本位で書き立ててやろうという意欲を感じる。

タイトルを見てわかるように、両方とも家庭環境に問題があったのだろうと決めつける内容になっている。

こうした決めつけは読者の声にも反映されている。記事はYahooニュースにも転載されておりさまざまなコメントがついている。まず引きこもりというワードに対する反応は多い。身近な問題になっていることがわかる。中には「問題を家庭で解決しようとしたがどうにもならなかった」とするものが多い。さらに「自己診断による精神疾患名」も飛び交っている。

おそらく宮台さんと周辺のジャーナリストたちには全く悪気はないのだろう。だが、今回の容疑者を「フィールドワークの対象」としか見ていない。まさに他人ごとの視点だがおそらくその冷酷さには気がついていないだろう。この裏側には問題を「自分ごと」として抱え込んだ人たちがいる。ただし彼らには知識が完全に欠落している。他人ごととして観察対象にする冷笑的な人たちと自分ごとを抱え込み冷静な視点を失った人たちに二極分化していることがわかる。

ひきこもりは悪であり修正されなければならないという社会通念がある。そして、だれしもその原因は家庭にあるだろうと考えている。だから週刊誌の興味は「容疑者の家庭環境」に興味が向かう。おそらく「悪」と決めつけられた側もそれを共有しており罪悪感を持っているのではないかと思う。だがそこから抜け出そうとしても道は見つからない。冷静さと知識が足りないからだ。

実はこれと似た構造がある。子育ては「キャリア」より格下の経済的価値が低い活動だとみなされている。そしてだれしもそれは家庭が勝手に解決するべき問題だと考えている。社会は他人の子育ては「他人ごと」と考えて「社会に迷惑をかけない範囲でやるべきだ」と考えている。さらにはその思い込みを子育て当事者も抱えてしまっているため日本の子育て環境は萎縮してしまう。

東京都の「育業」は単なるラベルの貼り直しだがそれでも効果がある。育児が休暇(サボリ)ではなく事業なのだと捉え直すことができるからである。だがそれは長くは続かない。やはり社会には「育児休暇でのんびりできて社会にもサポートしてもらえて良いですよね」というようなやっかみ混じりの評価がありそれに向き合わなければならない。家庭の中でも育児当事者たちは孤立しているはずだ。「私の世代ではちゃんと子育てができていたのにあなた(嫁)ときたら」とか「子育てはおまえ(妻)の仕事だろう」というような物言いは決して珍しくないはずである。

おそらく宮台さんは今後も同じような言論活動を繰り広げてゆくのだろうが、日本の社会学は結局のところ「社会の意識」を何も変えなかったということがよくわかる。政治もアカデミアも「所詮他人ごと」としてしか問題に向き合ってくれない。つまり「社会」とは全くの他人ごとなのだ。

こうなると、誰にも理解されなくても、当事者一人ひとりが意識を変えてゆくしかないのだろうなと感じる。

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