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れいわ新選組の議員ローテーション制はいいことなのかいけないことなのか

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れいわ新選組の水道橋博士議員が議員辞職した。この後は議員を1年ごとにローテーションするというが提案の「良し悪し」を問うがある。結論からいうと「支持者がいいならいいのではないか」と思う。ただしこれは民主主義にとっては危険な兆候でもある。

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まず「いけない」と考える人たちの論拠を見る。主に二つあるようだ。現在の選挙制度は個人か政党の名前を書くと言う拘束名簿式比例代表制という仕組みをとっている。この制度に逸脱するからこれはいけないことなのだという人たちがいる。さらに山本太郎代表が独裁的に決めているので「良くない」という人もいる。民主主義と民意を蔑ろにしているというのだ。

しかしながられいわ新選組はそもそも「今の体制にはどこか問題があるのではないか?」と考える人たちから支持されている。つまり彼らは「本来のルールの許す範囲で山本太郎さんが何かめちゃくちゃなことをやってくれる」ことを期待しているのではないかと思われる。

さらに拘束名簿式比例代表制も合区で代表が選出できなくなった県の議席を確保するために便宜的に作られた制度に過ぎない。そもそも「一人の票は平等であるべき」という憲法趣旨からは逸脱した制度であり再考の余地はあるだろう。

実際に得票数を見ると政党全体が2,319,156票を獲得する一方で水道橋博士さんの得票は117,794票だった。そのほかに30,000票を超えて得票した人はいない。つまりもともとテレビの宣伝効果にフリーライドしている政党なのだ。議員になればテレビ露出も増えるので「今無名の人も名前が売れる」のかもしれない。

テレビと政党要件(によってNHKのカバレッジが増えること)をお披露目に使っているという批評もあるが、これもかつての「全国区」の名残だ。テレビで顔が売れているタレント候補は全国から集票しやすかったのだ。

SNSでの集票が見込めない以上「一年ごとに露出を増やすこと」でタレント的な候補を増やすしかないのだろう。逆に言えばポスティングやSNSを使った支持者の宣伝に全く効果がなかったことを意味している。かつて民主党は政権批判番組で議員の名前を売っていたが旧民主党の流れを汲む立憲民主党と国民民主党もSNS利用には失敗している。自民党にも河野太郎氏を除いてSNSに浸透した議員はいない。つまり日本政治は依然テレビ依存度が強い。

ではなぜ日本の政治はSNSで浸透していないのだろう。

おそらく日本人は政治に対してそれほど不満は感じていない。感じているとしてもそれは消費者としての不満に過ぎない。テレビで面白い番組をやっていないからつまらないと言った程度のものだ。NHKニュースをダラダラと見ているような人たちが自民党をダラダラと応援している。

立憲民主党から野田聖子氏に引き抜かれた今井瑠々氏は「地域の中で立民にいると応援しづらいという声があった」と言っている。みんながNHKを見ているのに一人だけテレ東を見るという人がいれば「え、なぜテレ東なの?」ということになるだろう。今の立憲民主党はそんな存在だ。

アンドロイドスマホやMacを持っているだけで「え、なぜiPhoneじゃないの?」とか「Macを持っているのはカッコつけているからなの?」などと言われてしまう人は多いというのに似ている。人と違ったことをしているだけで「え、なんで」と言われるのは日本の消費者が極めて受動的だからである。そして日本の有権者が消費者のように振る舞うのは参加型の政治を作るのに失敗したからと言えるだろう。

ではどうしたら日本でもSNS型の政党が作られるのだろうか。ヨーロッパの例を調べてみよう。マジョリティが社会変化に晒され「自分達はマジョリティから陥落するのではないか」と怯えるとSNS型の政治が浸透するという傾向にある。

例えば、スウェーデンでは「多様なスウェーデン」という政治的正しさに反発する人たちの間にスウェーデン民主党への支持が広がっている。元々極端な一人の党首の人気に支えられていた政党だったが、現在では右派政権にとっても無視できない存在になっている。

スウェーデン民主党は元々ネオナチが源流だった。その後メインストリーム化(今回参照した記事の中では脱悪魔化と表現されている)をすすめオーケソン党首のもとで支持を拡大した。移民の急速な流入により一般市民が社会に対する不安を持つようになるとその不安に乗じる形で支持を伸ばしたようである。

イタリアにもれいわ新選組を思わせる「五つ星運動」と呼ばれるネット型ポピュリズム運動がある。一度は政権入りに成功するのだが政権運営をめぐり(北部)同盟と争うようになり支持を失っていった。一旦はECBの総裁経験者のドラギ氏を首相にしてEUから資金を引き出す。五つ星運動はドラギ政権内部で再び影響力を行使するために「ドラギ政権を離脱する」と宣言する。これが原因でドラギ政権は崩壊した。

ドラギ政権崩壊後に政権を取ったのは既存政党でもネット型ポピュリズム左派でもなく極右ポピュリスト政党(源流の一部にファシズムがある)と言われる「イタリアの同胞」だった。同盟は与党連合に残ったが五つ星運動はバラバラの「左派」側だったため政権からは離脱した。

既存政治に不満を持つ人たちに対する受け皿にはなったが実務能力も政局を作る力もなかった。

イタリアのコースを見ると面白いことがわかる。当初、これまでの政治システムに期待を持てなくなった人たちは左右の極端な政治を支援する。ところが最終的には左派は団結できなくなり右派はもっと過激な人たちに追いやられる。安定していた時に排除されていた人たちよりは、先行きが見えなくなった人たちの方がずっと数が多いからだ。イタリアでは左派が発掘した既存政党への不満が全て極右にさらわれる結果になった。大衆は消費者的に「誰かがなんとかしてくれないか」と思うだけなのだ。

おそらく極端な政党が支持を伸ばさないのは日本社会に変化が少ないことを意味しているのだろう。マジョリティのまま社会全体が地盤沈下を起こしているため一般大衆が不満を持ちにくいのだ。

山本太郎氏の提案は要するに「議員というのは単なる記号であり誰がやっても同じなのだ」と言うことだ。これは議員個人の資質の否定であり議会制民主主義の否定だ。だが、ヨーロッパの例を見るとれいわ新選組が独裁を実現することはないのだろうと思う。

社会が大きく動き出したときに「もうどうしていいかわからなくなった」人たちは「誰かが決めてくれないか」と考えるようになる。しかしここで独裁を提案するのはおそらく左派ではなく今よりももっと極端な思想を持った右派だろう。左派は細かな違いにこだわりまとまりに欠けるが右派は権力奪取のためならなんでもやる。

今回のれいわ新選組の提案に野党が戸惑っている気持ちはよくわかる。つまり「代表者の話し合いによる議会制民主主義には意味がない」という認識が上と下から広がっており彼らは板挟みになっている。特に消費者・視聴者以上の有権者を生み出すことに失敗した民主党の危機感は大きいのではないか。立憲民主党は「立憲主義を日本に回復する」のが党是だが国民は「話し合いによる民主主義」に対して魅力を感じているわけではなさそうだ。

上から広がっている民主主義の否定は「多数派さえ形成してしまえばあとは説明しなくてもいい」という多数派の横暴だ。一方で下から広がっている民主主義の否定は「多数派を取れなければ建設的な合意形成には参加できない」という異議申し立てである。すでに「当選したが逮捕されるのが怖いから国会には登院しない」というような議員も現れているが投票した人は「投票したら後は何か面白いことが起きるのを待っているだけ」なので特にそれに対して否定的なコメントを出すことはない。

総論すると支持者が異議申し立てをしていない以上は「いけないこと」ではない。だが「危険なこと」には変わりがない。個人の良識を元にした話し合いベースの議会制民主主義を否定しているからだ。だがそのことがわかるのはおそらくずっとあとに社会が大きく動き始めたときだろう。

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