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日銀が開けてしまった「パンドラの箱」とは?

今日のエントリーは単純に「パンドラの箱とは何か」を考察する記事であり18日に政策変更があるかないかを分析したものではない。ちなみにBloombergは「おそらく政策変更はないだろうが全く否定もできないので困ったものだ」というような予測を出している。

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先日来「金融庁が具体的な調査を始めたのは日銀の政策変更が意識されているためではないか」という分析を紹介した。しかしながら同時に「情報が錯綜しやすい環境になっており今決めるのは危険である」とも書いた。案の定、Bloombergは「ほとんどのエコノミストが政策据え置きを予想している」と書いている。つまり18日に政策変更が発表されることは「ない」と見ている。エコノミストがあるいかないかわからないものを予想するわけにもいかないのでここでは18日のことは触れないことにする。

一連の文章を読むと「パンドラの箱」という表現が出ている。ところがどうも元の意味とは違って使われているようだ。例えばBloombergには「「パンドラの箱」開けてしまった日銀、市場はさらなる政策修正を警戒」という記事が掲載されている。

もともとパンドラの箱は人類の好奇心がさまざまな災いをもたらすということを説明するための神話である。ゼウスは火(技術)を盗んだ人間を懲らしめるために壺を持ったパンドラという女性を人間界に送る。パンドラは中に何が入っているのかを確かめたくなり箱を開けてしまう。結果「さまざまな災い」が世界に解放されてしまった。ギリシャ神話は好奇心は災いの種になりますよということを言いたいのだ。ただ箱の中にはエルピス(英語や日本語では希望などと訳されることが多い)が残されているとフォローされている。好奇心からくるさまざまな災いに対処してゆく必要はあるものの人間には希望を抱くという能力があるのだということになる。つまり科学技術や叡智の危うさや制御の難しさを伝える神話だ。

今回一連の経済記事を読んできて「パンドラの箱」という表現には二つの使われ方があると気がついた。一つは長期金利の上昇のきっかけであり、もう一つはさまざまな憶測のきっかけである。どちらかというと「押入れの中にしまい込んでいた矛盾」の解放というような意味合いで使われている。おそらく一部腐敗しているものがあり制御不能になるだろうという含みがあるのではないかと思う。いずれぬせよすでにクリシェ(使い古されたフレーズ)のようになっている。

まずNRIの記事を読む。今回の政策変更はないだろうが年内に変動幅を0.75%にまで拡大するだろうと言っている。「いつまでにどこのくらい」はエコノミストによって数字が異なる。この記事では「さまざまに飛び交う憶測」をパンドラの箱を開けてしまったようだと表現している。

しかしながら過去の報道を読むとパンドラの箱はもっと具体的なあるものを指している。それが長期金利の制御不能な上昇だ。実は黒田総裁が異次元の大規模金融緩和をおこなったときにも「禁じ手の財政ファイナンスに手を染めた」という意味でパンドラの箱という表現を使う人がいた。この使い方は「非伝統的な金融政策」という中途半端な叡智が災いをもたらすという意味でもともともパンドラの箱の意味合いに近かった。

危惧されたシナリオは現在のトルコのそれに似ているが日本では結局このようなことは起こらなかった。

ただパンドラの箱はそのうちにもっと単純な使われ方をするようになる。次の記事は2017年のものだ。衆議院が解散されれば政治空白が生まれ「財政不安から悪い円安と金利上昇が起こるだろう」という不吉な予想をしている。安倍総理が消費税の使い道を提案したことで「財政均衡が目的のはずなのに日本の財政は大丈夫か」と不安になる人が増えるだろうと言っている。実際にはこのときにも「パンドラの箱」は開かなかった。だが2013年以来「黒田総裁の政策は日本に災いを呼び起こすのではないか」という不安は払拭されなかったことになる。

さらに次に見つかったパンドラの箱の記事が日経新聞に見つかった。こちらは「政策検証をするとさまざま矛盾点が噴出する」のではないかという例えとして用いられている。矛盾が表面化すると長期金利が災害級に急騰するのではというようなおそれがあったのだろう。この間ずっと非伝統的な金融政策が災いをもたらすのではないかと言われ続けてきたのだ。

NRIの記事をみてもわかるようにこれまでのパンドラの箱という言葉の使われ方と今回のパンドラの箱という言葉の使われ方はどこか違っている。いよいよこれまでの怯えが現実のものになるかもしれないという不安があるのだろう。

ではその不安の正体とは一体何なのか。

冒頭に紹介したBloombergの記事は「記事の事実上の修正」自体がメッセージになっていると指摘している。つまりこれまで変えてこなかったものを変えること自体が強烈なメッセージなるというのだ。さらにこの政策変更が反響する先は大手メディアではない。一部ギャンブル化した金融市場だ。さらに情報はSNSにのって拡散する。つまり金利の上昇だけでなくさまざまな情報をコントロールできなくなるのではないかという不安が高まっているようだ。

多くのエコノミストたちは「おそらく近く政策は放棄されるが今は動くに動けない状況だろう」と見ているようだ。何事にも慎重な日本政府は周囲の安全を全て点検してからでないと政策変更には応じないだろうという共通認識があるのだろう。だが問題は市場がそれをどう「解釈するか」であり政府・日銀の意味づけではない。

つまり政策変更がないということと市場がそれを政策変更とみなさないということは実は同義ではない。

日銀・財務省、大手メディア、大手金融会社などこれまで村を形成していた人たちは「事実上の政策変更」や「政策変更の予兆」がどのようなハレーションを起こすのかを読み取れなくなっている。おそらくニュースは一瞬にしてSNSによって解釈され世界中に広がることになるだろう。中央銀行がこれを安定的に制御できる時代は終わったといえるのかもしれない。

民間の活力はうまく使えば経済を成長させる原動力になるがそれを制御できる御者がいるかどうかはわからない。暴走を始めれば暴れ馬のように街を破壊するだけに終わるだろう。ただ現在の馬は重すぎる荷物に疲れ果て道端で休んでいる。もう荷物は引っ張れないからという理由で周囲の草を食(は)んでいるのだ。

「馬の解放」がいいことなのかそれとも悪いことなのかということは誰にも定義できない。ボラティリティ(予測不能性)が広がるということはこれまで安定を享受してきた人たちにとっては明らかに悪いことだろう。さらに今回の政策変更をきっかけに弱い地銀の中には経営的に不安定な状態に陥るところも出てくるはずだ。だが、これまで「一部の弱い地銀を助けるため」に活動を抑えられてきた都市銀にとっては悪いことではない。稼ぐ手段を持った若年層にとっても成長を享受できるチャンスになる。これまでの成長セクターは過重な重みを背負わされて歩いてきた。

つまり見方によっては今回のパンドラの箱の解放は成長セクターがこれまでのくびきから解放されて自由に走り出せるチャンスなのかもしれない。くびきとは馬や牛を荷車に繋ぎ止めておくために用いられる首枷(かせ)のことだ。ここから解き放たれた馬や牛が自由に駆け回ることになるのか、あるいは暴走して周囲を破壊しながら進むのかはまだ誰にもわからない。

経済成長の追求はそもそも暴れ馬を野に放つのに似ているのかもしれない。つまりそもそも経済成長を前提とした資本主義という仕組みそのものが一種のパンドラの箱なのだ。資本主義はおそらくさまざまな弊害をもたらすが、社会や国家が資本主義を前提にしている以上その活力に頼らないわけにはいかない。つまりメリットだけを享受することはできないのだということになる。

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