山上徹也容疑者の異例の「170日鑑定」が終わりいよいよ裁判が始まる。この長い鑑定にも関わらず山上容疑者の主張は変わらなかった。つまり長い時間をかけて主張が形成されており信念が固まっていたことが異例の長さの鑑定で証明されてしまったことになる。マスコミと世論はこの状態を扱いかねているようだ。
大手マスコミの報道では精神鑑定が終わったが「責任能力を問えないとする証拠は見つからなかった」と解説しているものが多い。このことが却って問題の深刻さを窺わせる。
これは長い鑑定を経て周囲から隔絶されても主張が変わらなかったことを意味する。普通の精神状態であれば「やはり自分は間違っていたのではないか」などと気持ちが揺らいでも不思議はない。つまりある程度の時間をかけて山上容疑者の中に強い信念が確立されていったということが逆に証明されてしまったことになる。
例えば読売新聞は、山上徹也容疑者、5か月半の鑑定留置終了…精神疾患認められず殺人罪などで起訴へという記事を出している。精神疾患が認められなかったということは書かれているのだが異例の長さだったともそれが人権上問題だったとも書かれていない。さらに司法や警察について「なぜ異例の長さ」だったのかも聞いていないようだ。扱い方がよくわからないから粛々と扱いたいということのようだ。
普段の犯罪報道ではもっと一方的に容疑者の悪辣さや悪質さを掻き立てることが多い。読者もマスコミも「大勢」の側にいる。悪者を裁くことで自分達が大勢の正しい側にいることを証明できるという感覚を得る。
だが今回の事件ではそれができない。山上容疑者を正面から見つめようとすればするほど「自分達の側にも何か問題があったのではないか」「これまで信じてきたものは実は間違っていたのではないか」ということになってしまう。
もちろんこのような扱い方をしているのは読売新聞だけではない。システム全体として「山上容疑者が主張を曲げたり精神異常が見つかってくれれば物事は丸く収まるのに」と考えていたように思える。
我々がこの問題に戸惑うのはどうしてなのだろうか。
山上容疑者の意識は旧統一教会と政治の問題に集中している。お金儲けを目論んでいるわけではないしなんらかの政治団体に所属して宣伝のためにやっているわけではない。ある種の「純化されたメッセージ」がある。メッセージさえ伝わればあとはどうなってもいいと考えているのだ。だが「大勢の側に立って悪者を裁く」ことに慣れてきたマスコミにはこれが扱えないのだろう。
政治側の思惑は明白だ。やはり統一教会と政治の不適切な関係が岸田政権批判や宗教全般に関するバッシングににつながることを防ぎたかったのだろう。とりあえず当初のような大きなバッシングの波は沈静化しつつあるが、仮に当初の「空気感」のままで裁判の様子がセンセーショナルに報道されれば岸田政権はかなりのダメージを受けていた可能性がある。つまり組織防衛の意図があった。
ある種の純粋さと組織防衛を念頭にしたさまざまな思惑を比べるとやはり純化されたメッセージの方が伝わりやすい。ただこれを正面から受け止めるとテロを肯定しているようにどうしても見えてしまう。テロのようなことは絶対にあってはならない。暴力で政治は変えられない。
このため、普段とは違った意味で精神鑑定が用いられたと見るのが自然だろう。普段は裁判をして罪を裁きたいがために精神鑑定を行う。体制の側に「自分達の方が優位である」という自信がある。
だが今回は普段とは違った意味で精神鑑定が用いられた。今回は山上徹也容疑者は「同じことばかり聞かれてうんざりしていた」と言っているそうだ。体制の側には自信の揺らぎが見える。「本来は高いところから罪を裁くべき」大勢の側が試されている。
他罰性の強い日本では「世間を騒がせた犯人」をできるだけ重い罪で裁きたい。さらに世間の方が数として優位だ。ところが一応は人権上の配慮から精神鑑定を行わなければならないことになっている。ここで積極的に「責任能力が問えない」ということになった場合だけ渋々免責されることになっている。根拠は刑法39条1項の「心身喪失者の行為は、罰しない」と2項の「心身耗弱者の行為は、その刑を減刑する」の二つなのだという。精神鑑定は大勢の側のお情けの意味合いがある。
大勢の側は「相手に対するお情け」を使って自分達を救おうとした。
鑑定をやらされた精神科医はかなり困惑させられたのではないだろうか。早い段階から「責任能力を問えない」という兆候は見られなかったようだ。そもそも最近の精神科医が精神鑑定によって責任能力の有無を判断することはなくなっているそうだ。TBSの報道は「それが最近のトレンドだ」と言っている。
現在もっとも大きな問題に直面しているのは文化庁だろう。
文化庁は過去に旧統一教会に対して指導を行っており、旧統一教会はこの指導の結果に沿った改善をしている。つまり、旧統一教会は文化庁の言われた通りにやっていたことになる。状況が変わっていないにも関わらず文化庁が突然解散請求に向けて方針を転換すれば「政治的思惑で宗教団体を潰した」ことになってしまう。監督官庁とは別にその監督が適切だったのかを判断する「裁判機能」がないため2回の質問権を行使しても前に踏み出すことができない。文化庁は3回目の質問も視野に検討をしているそうだ。事態を引き延ばそうとしているのではないかという疑惑があり永岡文部科学大臣は「引き伸ばしではない」と釈明しているが対応に苦慮していることは確かなようである。
こうした矛盾を解消するためには、山上徹也容疑者が明らかに支離滅裂な言動を繰り返しているかあるいは容疑を認めておらず減刑を求めて病気のふりをするというような前提があった方が便利だった。だが鑑定留置ははそもそも「便利な制度」ではないしそうあるべきでもない。
いずれにせよ山上徹也容疑者はようやく起訴され裁判員裁判によって裁かれることになる見通しだという。長い裁判が予想される上に世間からの関心は高い。民選の裁判員の重圧は相当なものになるだろう。そもそも扱いが難しい事件である上に人の心の中を覗くのは容易ではない。
暴力に訴えかける政治的テロが良くないということまでは誰もが合意するだろう。だが実際にはこうしたテロが起こらなければ表沙汰にならなかった問題もある。政治が放置してきたというのは簡単だがマスコミもまたこの問題を取り上げてこなかった。さらに今でもこの問題を正面から取り上げているとは言い難い。
このため報道と司法・警察システムは寄ってたかって容疑者の異常性を見つけ出そうとしたというのが本当のところなのではないかと思う。システムが全体として一体何から目を背け何を証明しようとしたのかはわからないが、一体それが何だったのかは一度落ち着いて考えた方がいいと思う。
落ち着いて考えてみれば、実は特に守る価値のないものを守ろうとしていただけということがわかるのかもしれない。