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昭和の「増税解散」は自民党政治をどう変えたのか

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なぜ岸田総理は防衛増税に邁進するのだろうと疑問に思っている人は多いようだ。実は財政規律の維持は宏池会にとっては中核的な課題だ。中には政治生命を投げ打って財政規律を維持しようとした総理大臣もいた。それが大平正芳氏だ。

大蔵省から池田勇人氏の側近になった大平正芳氏は1971年から1980年まで宏池会の領袖だった。諸派閥拮抗状態にあり総理大臣のイスはなかなか巡ってこない。椎名裁定により三木武夫氏が総理大臣になるのだが、大平氏は大蔵大臣として国債発行に追い込まれ「万死に値する」と恥じていた。そこで自分が総理大臣になると「増税」を国民に訴えることを決意する。

ではその後どうなったのかということになる。

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田中総理大臣がロッキード事件で失脚した後、各派閥は宏池会も含めて単独では政権が取れなかった。三木総理大臣はロッキード事件の真相解明を急ぎすぎるあまり党内から反発され三木おろしに晒される。この時に大平正芳氏は大蔵大臣として赤字国債を発行するのだが「赤字国債、万死に値す」 大平正芳氏が抱いた罪悪感という日経新聞の記事にある通り国債発行を恥じていた。

つまり当時の自民党政権には金権政治の総括と財政健全化という二つの課題があったことになる。

いよいよ、次の総理大臣は大平か福田かということになったが大平氏は全面戦争を選ばなかった。福田赳夫と「密約」をかわし福田氏を首相にする。最初の総理大臣は福田赳夫がやるが2年経ったら交代するという紳士協定だった。ところが福田赳夫氏がこれを反故にしてしまったことで結果的に「派閥抗争」に追い込まれた。結果的に大平氏の妥協と福田氏の裏切りが党内亀裂を作ったことになる。福田氏は現在の「安倍派」の源流である。

皮肉なことにこの時に漁夫の利を得たのが田中派である。田中首相はすでに金脈問題で失脚しており自分たちは前面に立てない。だが、自民党内での影響力は大きかった。田中角栄氏は福田赳夫氏とは折り合いが悪い。そこで大平氏に協力し大平内閣が成立する。

田中派との協力でようやく総理大臣の椅子を手に入れた大平首相には「国債問題を解決したい」という気持ちがあった。一般消費税を打ち出して解散に打って出る。これを「増税解散」という人がいる。

自分たちの金権政治も総括できないのに増税とは何事だと当時の人たちは感じたのだろう。大平氏は途中で一般消費税提案を諦めることになったそうだ。

自民党は議席を1つ失っただけだった。だが19議席有った空席のほとんどを野党に持ってゆかれてしまい結果的に自民党は単独過半数が取れなくなる。これが1979年のことである。こうなると再び「負けた側」の福田派が活気付く。この時の闘争は自民党からの首班指名が大平氏と福田氏の二名になるという過激なものだった。

現在アメリカの下院で議長が決められないという事態が生じたがキープレイヤーになったのはごくごく一部の過激な議員たちだった。民主・共和両党が均衡すると少数者がキャスティングボートを投じる権利が生まれる。日本の首班指名は決選投票システムをとっている。結果的に「何日も総理大臣が決まらない」ということにはならず大平氏が総理大臣に指名されることとなった。だが構造は似ている。

この時に大平派(宏池会)、田中派、中曽根派渡辺系、新自由クラブが大平氏を推し、福田派、三木派、中曽根派中川グループが福田氏を推した。主流派が少しでも動揺すれば反主流派が状況をひっくり返せるという状態だったのだ。

40日抗争は一旦は落ち着くのだが党内にはしこりが残っていた。野党がパフォーマンスのために不信任案を提出するというのは今でもよくあることだ。今回も単なる儀式のはずだった。だが、この時に誰もが予想しなかった事態が起こる。反主流派が欠席したことで過半数が崩れてしまい結果的に不信任案が通ってしまう。少数派の意思決定が多数決に大きな影響を与えた事例と言えるだろう。

予期せぬ結果が生まれたことから、これは多数決システムのバグと言えるだろう。誰も解散をするつもりなどなかった。そして参加者は誰も自分たちは少数派だと思っている。だがシステム全体が脆弱な場合「少数派の動きに左右されてしまう」ことがあるのだ。

社会党などの少数派は儀式的に首相に不信任投票する。自民党の反主流派は「少しくらい欠席者が出ても大勢に影響はないはずだ」と考えている。だが実際にはその少数者たちの声が全体の結果に影響した。不信任案は可決され結果的に大平総理大臣は解散を選んだ。つまりバグの結果全ての人たちが自分たちの腹を切った格好になってしまった。

ところがここでさらに予想しなかったことが起きた。大平氏が心臓の問題を起こして亡くなってしまった。もともと体調不良問題を抱えており心臓に不安があったそうだ。つまり大平氏は増税のために死んでしまったことになる。

結局自民党は選挙に勝った。「香典票」などと揶揄されることもある。この騒ぎで「一般消費税」問題について触れることはタブーになったのだが自民党の優位が崩れることもなかった。結果的に金権体質は温存され財政規律の問題も有耶無耶になった。この問題は消費税増税とリクルート問題で再燃し最終的に自民党の下野につながる。だがそれはバブル崩壊後の話だ。さらに民主党の野田政権でも消費税は下野の理由になった。

後になって冷静にこの頃の選挙結果を見ると「実は自民党の得票率は回復傾向にあった」そうである。もともと田中総理の金権問題にお灸を据えるために自民党を離反していた人たちは戻りつつあったのかもしれない。さらに「自民党にお灸を据えたい」という人たちは有権者の中では決して多数派ではなかったはずだ。だが結果的に政治を大きく動かしたのはこの「物言わぬ少数者」だった。

事態が膠着すると少数者が政治を動かすことになる。

岸田総理は宏池会系の総理大臣としてこの大平氏のレガシーを受け継いでいる。大平氏の「赤字恥じ発行は恥である」というレガシーも受け継いでいるのだろう。増税してでも国債発行を減らしたいという気持ちは宏池会系の政治家たちに共有されている。

ところが、消費税増税を言い出したことで心労が祟り結果的には帰らぬ人となったという記憶もおそらくはトラウマとして残っているはずである。

これを解決するためには「始祖」である池田勇人氏がやったように日本経済に活気を取り戻すしかない。だが、実は宏池会系が経済のリブートに成功したの池田勇人氏の「所得倍増」の一回しかない。大平氏の田園都市構想にも田中角栄元首相の日本改造計画ほどのインパクトはなかった。池田氏の発案自体は下村治の理論に基づいているのだがまぐれ当たりという側面がある。同じようなことを発案しても再現できない。岸田総理も見事にこのレガシーに乗っている。

恐らく「増税」そのものが大きな政治的なインパクトを与えることはないだろう。だがこの時にごく少数の人が「自民党を反省させたい」と動き出すとシステム全体に大きな影響を及ぼす。

現在の岸田政権下では地方組織の世代交代が起きている。このため地方選挙レベルで立候補者調整がつかないところが多いそうだ。時事通信が「地方選で自民分裂続々 次期衆院選へ火種」という記事を出している。高齢化によって免疫機能が落ちた自民党では「増税」のようなちょっとした問題がシステム全体の安定性に大きな影響を与える可能性がある。

こうした記事を読むと「自民党・公明党 VS 野党」という図式で捉える人が多いと思うのだが実は内部の少数者のちょっとした造反こそが不安定化の要因になる。大平総理の時代の不安定化要因は派閥抗争だったが岸田政権の問題は組織と日本社会の高齢化であるということがわかる。

大平時代は田中派時代の歪みを宏池会が修正できなかった。現在は安倍派の歪みを宏池会は修正し切れないだろう。宏池会は自民党内部の複雑な利害関係をコントロールできず、かといって日本経済をリブートさせるようなアイディアも持ち合わせていないからである。成功した大衆主義(ポピュリズム)の後の自民党政権が長続きしないのは恐らくこのためだ。

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