もしIDカード(日本で言えば戸籍)の性別を好きに選べるとしたらあなたはどうしますか?という話である。つまり男性で生まれても「私は女性です」と宣言すれば社会的に女性として扱われる。日本ではかなり面倒な手続きが必要だが、スペインで性別の変更が完全な自己申告制になりそうだ。急進左派ポデモスが主導した法案が下院を通過し上院に送られた。16歳以上であれば誰もが好きに性別を選べるようになる。14歳からは親の許可が必要で12歳からは司法と親の許可が必要だ。これが「いいこと」なのか「わるいこと」なのかを考える。
日本では性別は生殖と関連づけられることが多い。個人の問題ではなく家や子供との関係の中で語られる。性別を変えることはできるが女性になった男性が子供を作ったりするようなことはできない仕組みになっている。だがヨーロッパでは完全に自己認識の問題になっているようである。つまり自分のアイデンティティを追求する権利が広く認められているのである。
これだけを聞くと社会的に進んでいるように思えるのだが、当然そこにはさまざまな問題が出てくる。
まずAFPの記事を紹介する。自己申告制であると書かれているだけで詳しい情報はない。さらに別の情報が必要なようだ。フランス24の記事が見つかったので読んでみた。
この法案の目的はトランスジェンダーに対する不当な差別をなくすことである。IDカードの性を自分で選べるようにすれば差別はなくなり個人がアイデンティティを追求できるようになるだろうというのがポデモスの考え方である。
第一にこの法案は賛成188票・反対150票・棄権7票で通っている。つまりスペイン議会全体が全体で諸手を挙げて歓迎したというわけではないようだ。この法案は急進左派ポデモスが主導した法案だった。そして、フェミニストロビーやLGBTQの活動家の間で激しい論争の的になっていたそうだ。BBCやドイチェベレの報道なども合わせると社会労働党からも反発があり離党や党議拘束違反という問題も引き起こしている。
悪用を心配する人もいる。女性であると自己申告すれば女性のスポーツに参加したり女子刑務所への移送を要求できる。日本流に解釈するならば女性のIDカードを持っていれば銭湯の女湯に入ったり痴漢防止のために作られた女性専用車両に乗れてしまうのである。
ただどの記事を読んでも議論の背景にどんな事情があるのかについては書かれていない。これは自分で考える必要がありそうだ。
人間の性別には厳密には二つある。それは体の性と社会的な性である。トランスジェンダーがどちらの関心があるのかはおそらく人によって違うのだろう。さらにそもそも「男女二つしか性がない」という合意があるのかもよくわからない。
また、トランスジェンダーは「男性でも女性でもない」と扱われることがある。例えば体の性が男性のトランスジェンダーは男性からは「男らしくない男性」と見做されるが、女性からは「自分達とは違った存在だ」と見做されることになる。結局IDカードの性別を変更してもこの違和感が払拭されることはない。特に女性の権利を主張してきたフェミニストたちにとってみれば自分達の権利運動が別の運動に取って代わられることへの戸惑いもあるのではないかと思った。
最後の問題は自己決定権の問題である。急進左派にとっては「本人が自分を女性と思っていれば女性だし男性と思っていれば男性」なのだろうが、おそらく「どうみても女性や男性に見えない」と考える人は多いだろう。つまり自己決定されるべきなのか社会的な受け入れが必要なのかという問題がある。つまり自分で宣言して社会がそれを認めてもコミュニティがそれを認めてくれるとは限らない。つまり本質的な差別問題は解決されない。
フランス24、ドイチェベレ、BBCが共通して引用しているのが社会労働党のカルメン・カルボ元副首相のコメントである。社会党所属だったそうだが棄権投票した。「国はトランスジェンダーの人々に答えを提供すべだが、性別は自発的でも任意でもない」と言っている。つまり「勝手に選べるようなものではない」と言っているのだろう。伝統的社会主義者は個人の主張と社会の需要は織り合わされるべきものであると考えているようだが急進左派ポデモスはそれでは満足ができなかったようだ。
カルメン・カルボ氏がどういう理由で党議拘束に従わなかったのかはわからないのだが、党議拘束に従わなかったことを理由にして600ユーロの制裁を課せられる可能性があるということだ。
ではなぜ伝統的社会主義は急進左派の主導する法案を通したのか。
ポデモスについて調べてみた。元々は反緊縮を訴える新しい急進左派政党だったそうだ。2019年の総選挙では惨敗した。だが、この時に躍進した急進右派VOXが政権入りすることを防ぐために連立のパートナーとして取り込まれたようだ。社会労働党が政権を維持するためにはポデモスの協力が必要だったのである。
性自認は例えばスターバックスのコーヒーのように今日はカフェラテで明日はキャラメルマキアートというようなわけにはゆかない。また、実態としては「二つのうちどちらか」しか選べないというような人も多いはずだがIDカードの性別は男性か女性かという二つの中からしか選べないのではないかと思う。社会的には性によって求められる社会的要請が異なっている。例えば刑務所のような社会制度も男性・女性という二性別を前提としている。だからそれに合わせろといっているのだ。
今回の決定がいいことなのかわるいことなのかは軽々に決めることができない。しかしながら「当事者たちが限られたオプションの中から自分達で選ばなければならない」というのはかなり当事者にプレッシャーを与えるのではないかと思う。適切な教育やカウンセリングなしに導入すればそもそも性自認が揺れている当事者たちに「男性・女性どちらの性であるべきなのか」という自己決定を強いることになりかねないのだ。
全ての人がアイデンティティを自由のコントロールできるのは良い社会のように見えるのだが、それは全ての人が「全て自分で決めなさい」という自己決定を突きつけられているようなものだ。
おそらく性別だけでなく環境に対する考え方や民族といった問題も「自己決定」の中に入ってくる。
自分で決めたことに責任を持ち周囲と折り合わせてゆく責任も一人ひとりにある。社会にこうした一人ひとりの要請を受け入れる余裕があればいいのだが余裕のない社会では個人に大きなプレッシャーを与えることになるのだろうなと思う。
参考資料
- Spain approves divisive transgender bill(BBC)
- Spain: Gender identity bill passes parliament(DW)
- Spanish MPs approve new bill on transgender rights(France24)
- Carmen Calvo justicia su abstención a la Ley Trans: “Estoy de acuerdo con que haya una ley, pero no esta”
- スペイン、社会労働党とポデモスが連立樹立へ 選挙受け早期合意(ロイター)