文春オンラインが面白い記事を出している。エマニュエル・トッドの新作のプロモーションなのだと思う。新刊は10月26日に発売されているようだ。エマニュエル・トッドは家族という視点から政治や社会情勢を分析する独特な視点で知られている。たまたまフジテレビの「日曜報道」にエマニュエル・トッド氏が出演していたので文春の記事を読んだ後に番組を見てみた。
- 「中国が脅威になることはない」知の巨人エマニュエル・トッドが語った「世界の正しい見方」
- 「米国社会について真実を言っていたのはトランプのほうだった」エマニュエル・トッド見抜いた「トランプ支持者の合理性」
このスタジオではかなり興味深いやりとりが行われた。トッド氏が「決して触れてはならないあの問題」に触れてしまったからだ。一瞬放送事故なのかとすら思ったがフジテレビは記事にして顛末をまとめている。
米中対立と米露対立では構造が違う
エマニュエル・トッド氏の見立ては米露対立と米中対立には構造の違いがあるようだ。構造の違いは人口動態による。ロシアは「健全化」の方向にあり中国は悪化している。
中国は少子高齢化が進んでおり覇権国にならないだろうと言っている。欧米も弱体化しているとエマニュエル・トッド氏は見ているので「弱みを抱えた国同士」の対立は長引く可能性がある。
文春の記事はこのうち中国の問題を抜き出している。
エマニュエル・トッド氏は世界を父系的な国と双系的な国に分けている。父権的な国はロシア・中国・インドであり双系的な国は我々が欧米と呼んでいる国に多い。父権的な国では製造業が強く双系的な国は消費が強い。結果的にサービス産業優位になる。
この二つの文化圏が共栄するためにはお互いが相互補完的に補い合わなければならない。ところがこれが何らかの理由で成り立たなくなったのが現在の世界である。エマニュエル・ドットは「どちらともうまくいっていない国が戦争当事国になっている」と指摘しているため勝者はないと考えていることになる。つまり米中対立では「膠着」シナリオが予想される。
一方で、ロシアはアメリカよりうまくいっていると見ているようだ。つまりロシアのプーチン体制がこのままの状態で残ることを想定しなければならないという。「日曜報道」に出ていた木村太郎氏はこれが気に入らずプーチン大統領を現在のヒトラーと見立て「政治的に潰さなければならない」と主張していた。やりとりはフジテレビの記事にまとめられている。
事後に抜き出して編集ができる雑誌・Webメディアとテレビの生放送の違いがここから浮き彫りになってくるのだが、番組の冒頭ではまだそれが何なのかはわからないままだった。
アメリカのシステムの行き詰まりがグローバル化を破壊した
グローバル化を最初に破壊したのはアメリカ合衆国など欧米の側だとエマニュエル・トッド氏は考えているようだ。
文春の記事には次のように書かれている。
アメリカは1934年のルーズベルト大統領時代から貿易の門戸を開くのだが国内の製造業基盤を失っていった。1970年の終わり頃から1980年の前半にかけて「新自由主義」が加速する。格差が拡大していった。中国が経済を解放した時期がアメリカの経済的自由主義の頂点だった。1999年ごろから2015年ごろである。ところが、この政策によって国内の製造業が中国に流れ国内的な危機が始まった。
この時期になっても経済学者たちは「グローバル化がなくなればアメリカは猛烈なインフレに襲われるだろう」と主張してたが、エマニュエル・トッドはものが買えなくなるよりも人々が死んでしまうことの方が問題だと言っている。
記事を読むとおそらくトッド氏が言いたいのは「中国は脅威にならない」ということではないのだろうと思うのだがそれは隠れたままになっていてよくわからない。
「アメリカがうまくいっていない理由」としてトッド氏が挙げるのは当然人口動態だ。
45才から54才の白人の死亡率が上昇している。ガンの死亡率は減っており、麻薬中毒と肝臓の慢性疾患が上がっている。そして自殺傾向も増えているそうだ。つまり白人男性は強いストレスに晒されることになった。特に中等狂句止まりの白人が被害を受けているようだ。
アメリカ人にとって高等教育は「社会転落から身を守る術」になっている。つまり、成長ではなく脱落を恐れる社会になってしまったのである。
記事はアメリカがうまくいっていないということを書いてはいるのだが、だからそれをどうするべきであるという点については触れられていない。
つまり文春の記事は興味深いが「だからどうするべきなのか」がよくわからない記事になっている。
中国は覇権国家になれない……が
中国も人口動態上で極めて深刻な変化に晒されている。少子高齢化による問題が噴出することは間違いがなく政治経済的に極めて厳しい状況に直面することが予想される。エマニュエル・トッドはこれを「老人の重みで自ずと脅威ではなくなる」と表現している。
これはおそらく日本人が気に入りそうなフレーズであり、フジテレビのような親米のメディアも好みそうな話題だ。
だが、実はここからエマニュエル・トッド氏が得た洞察は日本のメディアが期待するものにならない。積極武装という方向性は一緒なのだが意味合いが全く違ってしまうからである。
このためトッド氏の「ロシアに対する予言」が宙に浮いてしまう。フジテレビの「日曜報道」では橋下徹氏がこの穴を埋めようとしていたがあまりうまく機能していなかった。
アメリカとロシアを比べると平均寿命はアメリカの方が高いが乳児死亡率や自殺率ではロシアの方が成績がいいようだ。これがトッド氏が「ロシアは容易には潰れないだろう」と考える根拠になっている。またアメリカは科学者やエンジニアが少なくなってきているが、ロシアには科学者やエンジニアが多くいる。これもアメリカ合衆国にとっては不利な情報である。つまり、どちらかといえば「アメリカがうまくいっていない」という含みになっているのだ。
トッド氏の予言は後になって「当たった」と言われることが多い。ところが現状分析となると一般的な感覚とずれてしまうため感情的に受け入れてもらえない。あたかもカサンドラの呪いのようである。
エマニュエル・トッド氏の日本への提言は木村太郎氏に拒否される
さて、世界のことはどうでもいいから日本がどうなっているのか知りたいという人もいるだろう。トッド氏は文春の記事の中では「日本はそもそも国力の維持すら諦めている」と語っている。テレビではこのような言い方はせず(本のプロモーションなので当然だが)日本は世界で重要な国であり続けるだろうとの楽観的な分析を示し出演者たちを安心させていた。
「日曜報道」では人口動態についての弱点を移民で補いつつ現在のアメリカ主導の「感情的な対立」に巻き込まれないようにとの警告を行なっていた。この辺りから雲行きが怪しくなってゆく。番組は「3つの提言」をまとめようとしていたがなぜかトッド氏は3つの提言をしない。ここから番組が用意した(事前に合意した)シナリオから外れていったのではないかと思う。
最終的にトッド氏が持ち出したのが独自核武装論だ。「日本は核を持つべきだ。核を持てば安全だ」と言っているがその脅威の中にアメリカも含まれているのである。最終的に「核」を連呼し出した様子が記事には詳細にまとめられている。
つまり「日本もアメリカの影響から離れるために核武装すべきだ」といい出したことになる。これに木村太郎氏は凍りついた。Yahooが配信するFNNプライムオンラインの記事がいつまで閲覧できるかはわからないが木村太郎氏はフランス語で「絶対にない」と言い、ドット氏は「フランス政府もその立場だ」と返したと書かれている。梅津アナウンサーは「その議論は慎重に」と言って締めたようだ。フジテレビとしては扱えない問題だと考えていることになる。
放送では最後に木村太郎氏が「それはナシって」と怒ったように聞こえたのだが木村さんのその発言は記事には掲載されておらず実際に裏で何が起こったのかはわからない。あるいは最後をどうまとめるかで事前に攻防があったのかもしれないが関係者からそれが語られることはなさそうだ。いずれにせよCM明けは何事もなかったかのように流行語大賞の話が始まり、橋下徹さんは「核の後にこの話題ですか」と苦笑いしていた。
問題のある「今後も欧米についてゆくか」という問題
顛末だけを書くと「エマニュエル・トッド氏の発言でフジテレビが慌てた」というだけの話なのだが、実は日本の安全保障に対する議論はかなり偏った方向で行われていることがわかる。
いわゆる「右派」と呼ばれる人たちは、日本はアメリカについて行きさえすれば安心だがアメリカを怒らせたら終わりだと感じている。このため核武装して中国に対峙するという議論には賛同するが同じ核武装でも「精神的にアメリカから独立するために核を持つ」というような議論はタブーとして封印されてしまうのである。同じようにアメリカの人口動態がかなり怪しくなっていて民主主義が危機にさらされているということは認めたがらない。
むしろ「これまでどおり民主主義体制についていれば盤石」と思いたいために、中国は脅威にならずプーチン体制も消えてなくなると思いたい。
ところがトッド氏は人口統計から別の見方をしている。
- アメリカは人口動態から見てシステムが行き詰まっている。アメリカはしばらくこの問題を克服できないだろう。
- 中国は崩壊はしないだろうが少子高齢化が進んでおり覇権国家になることはない。だからあまり敵視しすぎるのは過剰反応だ。
- ロシアは人口動態的には安定に向かっているためプーチン政権が容易に崩壊することはないだろう。
- 日本は欧米日の三極の重要な一つだが人口動態上の問題を解決する必要があり、トッド氏のおすすめは移民の受け入れだ。
さらにヨーロッパはロシアとの直接の脅威にされされており国民生活は経済的に破壊されている。つまり民主主義を守る戦いが一般国民のためになっていないことをトッド氏は実感している。
その意味ではヨーロッパではすでに第三次世界大戦が始まっていると言って良い。第二次世界大戦と同じようにアメリカは戦場にならずヨーロッパだけが被害を受けるという状況である。おそらく、トッド氏は中国と日本の関係をそのような目で見ているのだろう。
番組がトッド氏の「中国は脅威にならない」論だけをチェリーピッキングできずに失敗したという点では大惨事だったのだが、新しい視点とその反応をみることができたのは興味深かった。
人口動態から政治を分析するというエマニュエル・トッド氏の手法には理想を語るリベラルとは違った凄みと破壊力があると感じる。何よりメディアが認めているようにエマニュエル・トッド氏の予言は数々的中している。もちろん我々がこれを全て受け入れる必要はないのだがおそらく我々が持っている不安はトッド氏が指摘する現実を薄々は感じ始めているということの裏返しなのだろうと思う。
Comments
“エマニュエル・トッド氏の「日本独自核武装論」にフジテレビのスタジオが凍りつく” への1件のコメント
エマニュエル・トッド氏の以前からの我が国の核装備論は、そのとおりだと小生も思っていました。小生が偶に拝聴しに行く「武藤記念講座」においても、数年前に講演された中西輝政氏に、NPTからの脱退の是非を質問しましたが否定されました。先日の山下英次氏の講演でも同じ質問をしました。答えは是でしたが、アメリカを刺激しないように核シェアリングの話(ボタンをドイツイタリアのように押せるか否かの話)に持っていかれました。我が国が核装備するためには、NPT第10条に従い脱退せざるを得ないという結論を、どの場面でも主張する外ないと思います。