東洋経済オンラインが日本の生産性が上がらない理由についていくつかの記事をだしている。この中でデービット・アトキンソン氏の「この法律が日本を「生産性が低すぎる国」にした」を読んだ。生産性の低さに注目しているが「給料が上がらない理由」とした方がわかりやすいように思える。外資規制のために作られた中小企業保護の仕組みを1964年体制と呼び批判している。だが、この記事にはもう一つ特徴がある。日本人が論理思考が苦手だと指摘されている。アトキンソン氏は具体的には「徹底的な要因分析」ができないと主張する。改めて日本人は論理的思考が苦手と書くと反発する人もいると思うのだが、丁寧に議論を見てゆきたい。
まず初めにお断りしておくと生産性が上がったからと言って給料のアップにつながる保証はない。単に生産性を上げなければ余剰利益が生まれないので給料が上がることはないことはたしかだ。今回議論の対象になっているのは生産性を上げるためにはどうしたらいいかだがタイトルを給料アップにしたのはその方がわかりやすいと私が考えたからだ。
デービット・アトキンソン氏は日本人が一生懸命働いても生産性は上がらないだろうと言っている。日本の産業界の効率が悪すぎるからだ。ところが日本の労働の話は生産性の低さを労働者にばかり押し付けようとする。生産性が上がらなければ給与への転嫁はできないのだから、これが日本人の給料が上がってゆかない原因だということになる。
アドキンソン氏によると、日本の生産性が上がらない理由は日本に中小企業が多すぎるからである。またそのような中小企業が政治的に優遇されていることも疑問視している。このような体制ができたのは1964年で原因は欧米から要求された資本自由化だった。OECD加盟の条件だったそうだ。外資が導入されれば国が乗っ取られるという意識から中小企業救済法がつくられ護送船団方式など小さな企業を守るシステムが整備されたとアトキンソン氏は考えている。
一部の中小企業は救済対象にしてもらうために従業員の数を抑えることにした。このため成長しなくても温存される中小企業が増えた。これが「甘えを生じさせた」とアトキンソン氏は主張する。
こうした構造批判はアトキンソン氏が外からの目線で日本を眺めているからこそ生まれるものである。ここでは1964年体制が日本を給料の上がらない国にしたのかという点については考察しない。
この文章がもう一つ指摘している重要なことがある。「日本人が構造分析にほどんど興味持たない」という点である。アトキンソン氏は日本人は徹底的な要因分析をせず経済専門家の議論も表面をなぞるものばかりになるという印象を持っているようだ。
確かに、日本人は細かな日々のニュースには反応するが「根本」にはほとんど興味がない。例えば昨日扱った北朝鮮のニュースでもミサイルが飛んでくれば騒ぐが「国難突破解散だ」と言われるとそれを忘れてしまう。その後はお守りがわりの訓練に慣れてしまい「実際にミサイルが飛んできたらどうしようか」などとは誰も考えなくなる。基本的にリアクションと自己保身で議論が終わってしまうのである。地方自治体に「Jアラートを聞いたらどうすればいいか」問い合わせてみればいいと思う。誰も返事はできないはずである。
確かに日本の労働生産性の問題は議論ばかりは多いがその議論が実を結ぶことはない。結局「いろいろ話し合っても仕方ないことだ」と生産性の低さにに慣れてしまう。
これを念頭に岸田総理の所信表明演説を見てみよう。岸田総理は「賃上げ・高いスキル人材・企業の生産性向上」がセットだと言っている。つまり、高い人材がいないことが賃金が上がらない理由だと考えているようだ。ところがこの仮説が検証されることはない。そのあと国がこれまでもやってきたさまざまな政策プログラムを並べ立てて「あれもやっています、これもやっています」と繰り返すのみだ。だがこの非科学的思考法が野党から攻撃されることはない。本来答弁の責任がない細田議長に「しぐさ(ジェスチャー)で答弁しろ」と要求をした立憲民主党には科学的思考に基づいた政策批判は無理だろう。
色々やっているのに効果が上がらないのは政策が間違っているからである可能性が高く、その背景には間違った仮説の立案がある可能性がある。だが岸田総理がそれに言及することはない。そもそも施策がさまざまな仮説の寄せ集めでありまとまった論拠を持たないからだ。
このため「とにかく賃金を上げれば循環が回り始める」というさらにおかしな方向に議論が展開している。それを実現するための施策が「公的価格における見える化で看護・介護・保育の賃金を向上させること」である。この見込みにも大した根拠はない。おそらく政策の一つとして見える化プログラムが入っているのであろう。
もう一つの政策は「高いスキル持った産業に個人が移れるようにリスキリング」することだ。例えば「IT産業へのリスキリング」などが考えられる。おそらく現在のIT産業の一番の問題は多重下請け構造によりIT土方として逐次投入された兵士の使い捨て問題である。ロシアの例で言うと部分動員令のようなものだがロシアのような決定的な敗戦もなく兵士の脱走もない。意識の高いITエンジニアたちはすでに自分でスキルアップしているがそれによって高い給料が得られるような環境にはなっていないが全くサボれないほど過酷な環境に置かれている人はあまり多くないのかもしれない。
岸田総理の所信表明演説の根幹にあるのは二つの成功事例だということがわかる。一つは石炭産業の労働者を他産業に転換させた高度経済成長期の産業対策だ。もう一つはアメリカ西海岸のスタートアップだろう。根本原因を議論しなくても「成功事例さえ移植して来ればなんとかなかなる」と考えている可能性がある。仮説というよりこれらの思い込みがさまざまな施策を生み検証されないままダラダラと実行される。ところが効果が生まれないため余剰の労力が逐次投入されるというのが今の日本の政策の姿である。終戦なき永遠の敗戦と言って良い。
このように日本の政治議論は根本的な構造解析をしないために、その後にある議論が全て徒労に終わるという構造になっている。労働者は疲れてしまうが逃げ出すこともできないのでできるだけ要領よく仕事を終わらせて疲弊を防ごうとする。こうして労働生産性は低いままにおわってしまうのだ。
たしかにアトキンソン氏のような人に「外からあれこれ言われたくない」と言う気持ちもわかるのだが思い込みに立脚した議論ばかりを繰り返していても疲れるだけである。ここは一つ謙虚になって「徹底的な要因分析をしたがらない」という氏の観測を受け入れてみてはどうかと思う。
少なくとも今のような無駄な感情論の応酬と何のための議論なのかよくわからない議論からは解放されるはずである。
付け足しになるが氏の「1964年体制」というのは面白い着想だと思った。実際に中小企業救済法にそのような意図や効果ががあったのかについてはもう少し議論が進んでも良さそうだなと思う。最近、テレビで事業継承のコマーシャルを多く見るようになった。経営者がおらずこうして保護したはずの中小企業も存続が危ぶまれている。