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萩生田光一政調会長はなぜそんなにバーベキューが好きなのか?

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統一教会問題が政治の世界に復活してからしばらくがたった。当初は統一教会は宗教なのか悪徳商法なのかという問題が出ていたのだが、焦点は完全に別のところに移りつつある。「なぜ政治家は不適切な関係」を自分たちで処理できないのかという問題である。そんな中、萩生田光一元政調会長と教団の「不適切な関係」が取りざたされている。焦点になっているのは統一教会の思想やいわゆる霊感商法ではない。なぜか「バーベキュー大会」が問題になっている。

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発端は新潮のある記事だったようだ。萩生田氏と教会は兼ねてから親密なつながりがあった。そこに生稲晃子氏を連れてゆき支援を頼んだのだという。萩生田氏はこの報道について否定している。

この記事には不思議なことが書いてある。選挙期間中の候補者の仕事は「支援をお願いして回る」ことだ。選挙期間中に駅に立つ候補者はその人が地元の人であろうがなかろうが投票をお願いするのが普通だ。だが生稲氏の事務所は「教会施設には立ち寄ったが支援はお願いしていない」という。仮にこれが本当であれば「この教会がどんなものかを知っていたから支援が頼めなかった」ということになってしまう。つまり論理的に破綻している。

生稲陣営は「たまたま人が大勢いたから立ち寄ってみた。不適切な集団だとは思わなかったし組織的な支援もお願いしていない」くらいの言い訳をすべきだった。この問題がすでに炎上していることはわかっているので慌てて全否定したことで却って問題は複雑化しているのだが、意外と当事者は気がついていないのかもしれない。

さらに記事は「萩生田さんはバーベキューの熱心な参加者であり、萩生田さんが来ると場が華やいだ」という信者たちの声を紹介している。単に支援者ではなく「家族のような」関係だったそうだ。

こうした一連の疑惑から次のように感じる人も多いだろう。

  • なぜ政治家は社会的に不適切と考えられている団体との関係を断ち切ることができないのだろうか?
  • なぜ政治家は正直に事情を説明せず、問題を小さく報告しようとするのか?

当初あった教会と政治の問題という大きな枠組みは忘れ去られ、不誠実な姿勢ばかりが疑念を呼ぶ。とはいえ「完全にアウト」というわけでもない。これがモヤモヤ感を生み岸田政権の支持率をじわじわと押し下げてしまうのである。政策ではなく人柄で支持率が上下する。

日本人にとって政治の本質は政策ではない。隣にいる人だったら信頼して付き合って行けるのかという問題の方が本質なのである。

こうした「問題」は新潮・文春だけでなく女性週刊誌にも転載される。女性自身は萩生田さんの問題というより「一回のタレントにすぎなかった生稲晃子氏」が政治家に祭り上げられた経緯について疑問を呈している。この辺りになるとすでに伝聞情報になっているため「なんとなく怪し」く「なんとなく不適切」ということしか伝わってこない。書いている人たちも生稲さんの何が不適切でどうあるべきかという答えは持ち合わせていないに違いない。だが、記事に反響があれば女性週刊誌は何度でもこの話題を取り扱う。その度に政権の支持率が落ちてしまうのだ。

「説明しない」ことで印象が一人歩きし、やがて政策論争を超えて政治の本質になる。おそらく憲法改正も内容よりも誰が提案しているかということの方が問題になるのだろう。

この記事を読んでいて「それにしてもなぜバーベキューなんだろうか?」と思った。

萩生田氏といえば加計学園問題の時にも親密なバーベキュー前の写真が出て話題になったことがあったからだ。一つの肉を焼いて共有するという姿から「利権を共有する中だった」ということがどうしても想起されてしまう。今回のバーベキューも(少なくとも信者の話の中では)家族同然の親密さを象徴するために使われている。みんなで一つの肉を焼いて分け合うということが親密さの表現になっているのだろう。一つのものを分け合う仲間に入るということが非常に重要視されているようだ。これを外から見ていると「利権を独り占めしている」ように見えてしまうのである。

日本の政治問題が週刊誌レベルに波及すると政策議論はすっぽりと抜け落ちてしまい「隣人として信頼できる人なのか」ということが大きな関心の的になる。実はこちらの方が政権の支持率に大きな影響を与えるのかもしれない。

保守派の思想に統一教会の思想が浸潤していたのかという問題よりも、萩生田さんと教会が「一つの肉を焼いて共有する中だったのか」ということに関心が集まり支持率が左右されてしまう。そしてこれが「憲法改正を発案している人たちが信頼に足る人なのか?」という判断材料になる。

こうなると合理的な説明はできないのだから、議論が分かれる行動はほとぼりが冷めるまで慎み関係も全部切り捨てるしか選択肢がない。この問題はどうやらかなり意外なところに漂着しつつある。

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