ざっくり解説 時々深掘り

十牛図 – 書く事と語る事

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いつものようにはてなを巡回していたら「実生活が充実しはじめたら、ブログを書かなくなった」という記事があった。裏返しに、ブログはリアルな生活が充実していない人のハキダメのようになっているのだという主張があるのかもしれない。一方、小栗旬はテレビの対談番組で「演出家に俳優はすこし不幸な方がよい」と言われたのだという。恋愛したら演技できなくなりそうで…と続くので、ちょっと面白くない発言だ。ちなみに演出家は蜷川幸雄だそうだ。
この二人の発言は、社会的な評価に違いがある(ブログはそれほど評価されていないが、一方は人気俳優である)一方、一つの共通点がある。「満たされていないこと」が表現には必要だと主張している所である。
さて、ここからが問題だ。表現は、一体何の為に発せられて、どこへ向かうのだろうか。
ここに自由訳 十牛図という本がある。もともとは禅の題材一つだそうだ。このお話の一番最初のところで、登場人物は突然「牛がいない」ことに気がつくのである。牛を探しに行くのだが、なかなか牛はみつからない。
何かが足りないことに気がついたとき、人はいろいろな手段を使ってそれを探そうとする。その一つが何かを書き綴ることだったり、俳優として表現することだったり、シゴトに邁進することだったり、とその手段はさまざまだ。しかし、探索の出発点は「何かが不足している」ということに気がつくところなのだ。
さて、結局この人は牛を捕まえて帰ってくるのだが、お話の途中で消えてしまう。まず牛がいなくなり、次の図で人も消えてしまうのである。その後場面は一転する。十番目の絵は、市中にでかけていって人と語るところで終わっている。ここでは語り手側の人は「みなりに構わない」姿になっている。もうそういったことはどうでもよいというわけだ。最初の探索の段階から一つ上がったところでの探索と表現がある。つまり「書く、話す」ということにはいくつかの違った状態があるということだ。いわゆる悟った状態だが、そこに至るには長い道のりがかかりそうだ。
さて、この図の面白いところは、探索が個人で始まり、社会で終わっているところだ。最後の2名の図が「社会」を表現しているものかというのは考察の余地がありそうだが、とりあえず「入鄽垂手」といって、市中に入って手を差し伸べることになっている。
禅を離れ西洋に目を向けるとユングにも集合的無意識や共時性という概念がある。個人を突き詰めてゆくとその根底には人類共通の無意識があるのだというコンセプトだ。さらに何かを求めれば、それが外側から与えられるだろうということだ。「希望」(つまり足りない事が満たされる)という信念体系だ。
この考え方がなかなか受け入れがたい。それは、我々が普段生きている世界は「等価交換」の世界だからだ。一生懸命シゴトをしたからお金が貰える。相手に与えたから好きになってもらえる。勉強したからよい学校に入れる、お金を払ったからバッグが買えるという具合だ。これを強化する事が成長や繁栄に結びつくことになっているわけだ。その欲求は個人が個人であって、他の人たちとはつながっていないのだ、という前提がある。一方、怠けたらすべてを失うのではないかという恐れもある。個人がすべてを失えば、もう生きてゆけないのだから、人から奪って持ってくるか、死ぬしかない。
十牛図の世界も、ユングの集合的無意識もこの考え方からは逸脱している。自分がなんらかのつながりによって他の個人とつながっている、影響を与えることができると考えているからだ。この前提を受け入れると、個人的な探索活動には社会的な意味があるということになる。共時性に至っては、望みさえすれば(ただし本当に望んでいるものであれば)何でも手に入るということになり、さらに受け入れがたく感じる。
スピリチュアリストや宗教家であれば、思索自体には無条件の意味がある。しかし、経済家、政治家、企業人といった人たちがこれについて考察してみることには価値があると思う。
通常の「等価交換」の経済は破綻寸前だ。現金は常に足りず、ひとびとががんばった結果として格差が広がる。こういった社会は持続不可能だが、抜け出す道筋がみつからない。一方、見返りを与えずに人に与えるという行為にはなんらかの便益があるのだろうかという疑問も生まれる。
成長のために不可欠な創造活動の源流に当たる部分がこうした個人の探索に依っている。故にコンスタントな成長を確保するためには、個人の思索になんらかのインセンティブを確保する必要がある。しかし、根本的なイノベーションはそのまま経済的な成果に結びつく事はないし、どれが経済的に価値のある創造物なのかということは、発明や発見がなされた時点では計測ができない。
受け入れるか受け入れないかは個人の裁量の範囲だと思うが、個人の小さな活動が社会になんらかの違いをもたらす可能性について考えてみる価値は十分にあるように思われる。