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「なぜ日本人の賃金が上がらないのか」を日米トラックドライバーの例から考察する

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「なぜ日本人の賃金が上がらないのか」という議論が延々と続いている。政府がなんとかすべきだとする人がほとんどだがめぼしい成果は得られそうにない。そこで実際に賃金が上がっている業界を探して調べて見ることにした。「こうすれば賃金が爆発的に上がる」というヒンが得られるからだ。そこで見つけたのがアメリカのトラックドライバーの賃金だ。中には数年で二倍近くに跳ね上がったというケースもあるそうだ。日本でも「何かが劇的に変わらなければ賃金上昇は起こらない」ということがよくわかる。ただこの状況を全て真似したいかと問われるとそうは思わない。実は問題も起きている。

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アメリカでトラックドライバーの賃金が上昇している。CNNは40,000ドルだった給料が数年で70,000ドルに値上がりしたというドライバーの例を紹介している。要因は二つある。需要の増加と供給の不足である。当然だがこの二つの要因で賃金は上がるのだ。需要と供給で賃金が上がるためには「市場」が形成されている必要がある。つまり労働者が高い賃金を求めて移動しなければ需要と供給のバランスが崩れていても賃金上昇は起きない。

供給が細っている理由は職場環境の過酷さである。離職率は高く一年で90%以上が辞めてしまう職場と言われているようだ。Business InsiderのYouTubeビデオによるとかつてトラック運転手は労働組合に守られており「一生懸命働けば中間層に移動できる」という憧れの職業だった。だが1980年にカーター大統領がMotor Carier Actという法律で規制を緩めてしまい底辺の仕事に格下げになる。労働環境は過酷で離職率は高い。だが代わりのドライバーを探すには苦労しないという環境だったようだ。つまり労働市場のバランスは保たれていた。

Business Insiderが取材したドライバーは独立事業者だ。自分で経費を払い経営を成り立たせなければならない。ガソリン価格が高騰しており生活は必ずしも楽ではないようだ。休みは少なく1日の労働時間は長い。最低賃金以下で働かなければ経営を成り立たせてゆくことはできないという状態である。

ところがこのバランスが崩れ始める。直接のきっかけは通販需要の伸びだった。Eコマースが発達するにつれてトラックドライバーの需要は急激に伸びた。だが、職場環境は改善しなかったため「お金で解決する」しかなくなってしまったのだ。こうして賃金は上昇を始めた。

さらにこれに追い打ちをかけたのが新型コロナ禍だった。「おうち需要」は急増したがコロナ給付金が出たこともあり「この際ワークライフバランスについて考え直そう」という人が増えた。このため「代わりはいくらでもいる」という状態がなくなり「さらに高い金を出して新しいドライバーを探さなければならない」という状態に落ちていったようである。また賃金が上がると無理して稼ぐ必要はなくなる。

ドライバーにゆとりができたことで生活のために無理して稼ぐ必要がなくなると、かつて搾取型の報酬体系に依存してきた小売業はその構造を維持できなくなってしまったのである。

アメリカのトラック事業も大手寡占の状態にある。だが例えばAmazonとWalmartといった小売ライバルが競争力を維持するために「もっと高い給料でトラック運転手を雇う」といえば全体としての給料は上がってゆく。Walmartは競争力を維持するために「トラックドライバーの養成費用も出す」というオファーを出している。

さらに政府の間違った規制も加わった。アメリカは自由を確保する代わりに「危険な人間を排除する」ことを規制だと考える傾向がある。銃規制にも見られる問題だ。トラックドライバーの場合は劣悪な労働環境を改善する方向ではなく「危険なドライバーを制限する」連邦規制が行われている。薬物の使用などよりドライバー不適格とされた人が54,400人もいてドライバー不足に拍車がかかっているのだという。

つまり、アメリカのトラックドライバーの給与高騰は主に市場の失敗によるところが大きい。大きな労働組合が職場環境の改善を求めればおそらく慢性的に人が足りないという状態は解決されるだろう。だが、アメリカ政府は十分に対策を講じてこなかったため却って人件費が高騰しているのだ。

これが良い状況でないことは明らかだが、いずれにせよこのような状況が整えばトラックドライバーの給料は上がる。

では日本では何故これが起こらないのか。日本でもコロナ禍の影響で通販需要は伸びている。とはいえこぞって運送業に参入する人が増えているという話は聞かない。つまり供給は伸びていない。市場原理が働いていれば自然に給料や所得は増えるはずである。だがそうなってはいない。

先日アマゾンの配達員が労働組合を結成したというニュースを見た。だがロイターの記事を見ても彼らの苦境がどこにあるのかはわからない。弁護士ドットコムが詳しい記事を書いている。

  • 日本のトラックドライバーは個人事業主として仕事をしている。労働組合はこれを不服とし労働者として扱ってもらいたいと考えているようだ。
  • 貨物取扱量は適正値を超えており「このままでは死んでしまう」という過酷さなのだそうだ。長距離輸送が前提のアメリカと違って日本では小口輸送が主である。このため少量の荷物を細かく運ばなければならないことが問題になっているようである。
  • Amazonは下請け業者数社と契約を結んでおり個人事業主とは直接の雇用関係にない。にも関わらず配送アプリ「ラビット」により直接指示を受けている。AIにより「効率化されており」1日120だった荷物が200にまで増えているという。Amazonとしてはパラメーターをいじりどんどん負荷を上げてゆくのだが現場は「もう死んでしまうかもしれない」状態にまで追い詰められている。ゲームオーバーのボタンはない。蓄えがなく他の仕事が見つけられないのなら死んでしまうしかないことになる。

どうやら労働者が囲い込まれていて逃げ場がないのが問題のようである。問題は明らかなので改善策も明らかだ。

  1. 配送業者は仕事を辞めて次を探すことができない。貯金がなくこの仕事を続けるしかないからだ。労働者がこの業界に張り付いている限りAIのパラメーターは上がり続け、最後には過労死してしまうだろう。まず仕事を探せるように就職支援などを行うべきである。
  2. 偽装人材派遣のようなことをやめて「偽装下請け」の中間事業を禁止してしまえばいい。こうすればトラックドライバーは下請け業者を選ぶ自由が得られる。中間下請け業者が制限されれば人件費ダンピングで仕事を得るというような慣習もなくなるだろう。
  3. できればAmazon以外のドライバーに依存する小売業者が出てくることが望ましい。

つまり労働者の流動性を高めてやればいいのだ。トラックドライバーのスキルセットはかなり均質なものだが、同じような政策で解放される労働力は他にもある。例えばIT業界や建設業界などである。どこも系列化や中間下請けの実質的な人材派遣化・斡旋業化が進んでいる業界である。

ただし単に労働者の流動性を高めただけでは問題は解決しない。アメリカのトラックドライバーの例を見てもそれは明らかである。十分な流動性が確保されたら次に行うべきは労働環境の整備である。流動性だけが担保されて労働環境が劣悪なままだと今度は急激な人件費の高騰が起こりかねない。それが実際に起きているのがアメリカのトラックドライバー市場である。

流動性が確保されれば、トラックドライバー・IT技術者・建設業の給料は上がってゆくに違いない。だが、解決するのは賃金不足だけでありこれが「人間らしい労働環境の整備」につながることはないだろう。大きな調整者がいないために、アメリカのトラックドライバーの労働環境は極めて劣悪なままである。労働環境整備と規制はその後に政府が企業や労働組合と協力して別途取り組まなければならない問題である。

いずれにせよ労働流動性を増すために「すべての企業をぶっ壊したり」「年金システムを破壊する」必要はない。系列でがんじがらめになり指揮命令系統があやふやだった状態を調整してやるだけでいい。

逆に日本のAmazonが今のような状態を続ければおそらく労働者を全て疲弊させてしまうことになる。いったん「過労死」が常態化すれば社会的批難にさらされるだけでなく「海外から労働者を輸入してこないと日本の小売流通が持たない」というような状況になりかねない。

いずれにせよ落ち着いて考えれば労働力上昇の仕組みは極めて単純でわかりやすい。取引が自由な市場での価値が「需要と供給によって決まる」というのは大学生1年生で習う程度の経済学の基礎知識である。にも関わらずなぜ政治・企業・労働組合から賃金を上昇させる提案が出てこないのかがよくわからない。

いずれにせよ日本の労働市場もアメリカの労働市場も失敗している。前者は流動性の不足であり後者は環境整備の失敗の問題である。これらはどちらも市場の失敗なのだから国が介入して調整する必要があるというのが伝統的な資本主義・自由主義社会の常識だ。やることをやっているとは言えないのだから、何も常識はずれの「改革」などを先に実行する必要はないのだ。

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