最近「食糧安全保障」という言葉をよく聞く。議論を検討すると主に二つの使われ方をしているようだ。一つは国際的な食糧安全保障である。現在WTOで食料調達問題が話し合われている。もう一つは国内的な食糧安全保障だ。こちらは農業界からの発信が多い。この文章ではまず農業補助について言及した日本農業新聞の記事を紹介し、次にWTOの状況について調べる。
各論に入る前に、まずは時事通信のニュースワード「食糧安全保障」を見てみよう。前段は「最低必要な食料を合理的な価格で入手できるようにすること」と書かれている。だが中段は議論が「国内農業生産の強化」が中心になっていると書かれている。つまり農業界への利益誘導に使われる可能性があるということになる。
利益誘導というネガティブな書き方をしたが、現在日本の農業はかなり危機的な状況にあり政治的な支援なしでは成り立たない状況になっている。コメ離れが進み海外生産に依存する小麦食の人が増えているうえに農業従事者の高齢化もすすむ。株式会社の参入などを認めては見たが高収益化はあまり進んでいない。さらに最近では肥料価格の高騰という問題まで積み重なっている。悪条件が多く、危機を回避するための一時的な保護がその後で恒久化してしまうという問題も起き始めているようだ。
日本農業新聞は「骨太方針」が閣議決定されたと一定の期待を表明している。メニューは出そろったのであとはどう運用されるかが重要だということになる。ただし岸田政権は分配政策を後退させている。国債による資金調達環境が変わりつつある今「具体的な試算なしに財源を示せない」という事情があるのかもしれないのだが後退の理由はよくわからない。
特に日本農業新聞が懸念を示しているのは肥料価格の高騰と水田だった畑に対する転作補助の停止だ。農水相としては「一旦転作が実現すればあとは市場価格でやってほしい」ということだったのだろうが「補助金を前提にしないと経営が成り立たない農家」が自立できないまま残っているということがわかる。5年で補助を打ち切られては困るという論調になっている。
政府は6次産業化などの高収益化事業も推進しているのだが節約志向(いわばデフレマインド)がすっかり浸透した日本市場での高収益化は難しいようだ。新聞記事を読む限り、継続的な補助が必要とされるため「食料の安定供給は安全保障問題なのだ」という再定義をしようとしているというのが現状だ。
日本は食料品が豊富に手に入る。このため消費者の間では「食べ物はあって当たり前」ということになっており食糧安全保障への関心は低い。だが舞台裏で農家はかなり厳しい状況に置かれているようである。このためこの問題に注意を引き付けたい農業関係者はウクライナ危機などを引き合いに出し予算獲得を盛んにアピールをしている。日本農業新聞の記事がウクライナ危機と農業補助を結び付けようとするのはそのためだろう。
一方同じ安全保障を違ったトーンで使っている人たちもいる。キャノングローバルの文章は中国の野望と台湾危機を引き合いにだして危機感を醸成しようとしている。つまり食料ではなく安全保障に力点を置いて、この問題を「大きな問題」として語ろうとしている。
実際に「大きな食糧安全保障」も大きな問題になっている。WTOが機能していないのである。現在正常化に向けてWTO閣僚会議が開かれているがまとまった声明が出せるのか疑問視されているという状態だ。国際的な協調が失われる中で各国ともに自己保全の動きを加速させているのが現状だ。
例えば紛争解決を行うWTOの上級委員会はトランプ大統領が人を引き上げたことで機能を停止している。このため各国とも自国経済を守るため次々と供給網を遮断した。
近年ウクライナの戦争が起きたことでウクライナやロシアからの小麦の輸出が滞った。これが連鎖反応的に各国に伝播し「自国の食料を外に出さない」という国が増えているのだ。インドのように熱波の影響で小麦の輸出を制限した国もある。NHKが穀物供給の問題をまとめた記事を出している。
例えばウクライナ産の小麦の供給が滞ったエジプトはインドに頼った。当初インドはエジプトへの小麦供給を約束していたのだが熱波による減産によって急遽輸出を停止した。慌てたエジプトはインドと交渉して「禁輸措置をエジプトには適用しない」という合意を取り付けている。食糧安全保障は将来起こり得る有事の備えでもあるのだが一部の国にとっては「明日解決しなければならない喫緊の課題」なのである。大臣が直々に供給国と交渉をして食料を分けてもらうというようなことが必要になってくるのである。
つまりキャノングローバル研究所がいう「中国の野心」よりも国際調停の枠組みが機能しなくなったことで自国の経済を守るために防衛的な動きが増えていることの方が問題としては大きいということがいえるだろう。
こうなると日本人としては、価値観が近いアメリカ合衆国がWTOへの関与を強め事態打開を目指すべきだと思いたくなる。ロシアや中国はどことなく信用できない上にそのメンタリティを理解するのも難しいからである。
だがアメリカでは中西部を中心に中国に対して強い対抗心をむき出しにする人が多い。このためバイデン政権もアメリカ主導で新しいルールづくりを行いたい考えである。知財保護などを引き合いに出し中国を牽制しているのだが結果的にWTOの役割の低下を招いている。
このような悪条件が重なるなか、WTOは2017年12月ぶりの閣僚会議の開催にこぎつけた。ウクライナの戦争を受けた食料価格の高騰が一部の国に深刻な影響を与え始めているからだ。ロシア・中国・アメリカの思惑は一致しないが具体的な宣言が出せるかどうかに注目が集まる。ロイターは事務局長の「合意形成は厳しい」という声を伝えているのだが、合意形成は世界経済の安定にとって極めて重要だ。
このように食糧安全保障という言葉一つとっても人々の思惑はかなり異なっており使用される文脈も異なっている。例えば、自民党は自民党は国が予算をたくさん出すことを「思い切った政策」と呼んでいる。
本来なら異なったパースペクティブで政策提言をすべき立憲民主党も「補助金」と「高収益化」の議論に終始しているようだ。の立憲民主党の農業政策は(2021年の政策を見る限り)国家が直接農業者を戸別保障し農地を国民財産と位置付けるというより社会主義色の強い政策になっており、その後で「6次産業化」などの市場化提言が並ぶ。
これはこれで大切なことなのだが、実は食糧安全保障という概念がカバーしている領域はそれよりもずっと広い。だが残念なことに、WTOの正常化に向けて日本が積極的な役割を果たし自由貿易の確保と食料の安定供給に努めるべきだという声は残念ながらあまり聞かれない。