ロシアが日露漁業協定の停止を通告してきたという短い記事を見つけた。「日本側が支払いをしなかった」というのが協定停止の理由なのだという。ロイターの記事を各社が再配信しているのだが「一体何をどういう理由で支払わなかったのか」ということは書かれていない。のちに各社の後追い報道が出たのだが、実態は意外なものだった。日本政府は北方四島付近で拿捕されるのを防ぐために協力金を支払っていたそうだ。ネットでは「みかじめ料」というような批判をする人もいる。だがNHKの記事を読むと協定停止の理由はこの協力金ではなく全く別の経済協力に関するものだった。すっかりおなじみになった「ロシア流交渉術」の一環だったのである。
交渉はいかにもロシア流といった感じである。現在ロシアは食料を安全保障上の武器に使う戦略に出ている。ウクライナからの食料輸出を認めるといっておいて「ところで経済制裁解除が条件だ」と付け加えるというようなやり方である。つまり敵対を前提とした国同士のお付き合いなのである。
NHKの記事によるとロシア側は「漁の協力金(実質的な入漁料だろう)」を支払わないことを問題としているのではなく「日本政府はこの協定が機能するために不可欠なサハリン州に対する無償の技術支援の提供に関する文書への署名を遅らせ、協定に基づく支払いを『凍結』する方針をとった」ことに対する対抗措置と位置付けているそうだ。入漁料は入漁料で取った上でさらに無償の技術協力まで引き出そうとしている。
この協定が履行停止されたことでスケソウダラ・ホッケ・タコなどが漁が安全にできなくなる。だがロシアとの間の交渉ごとはこれだけではない。これとは別にサケマス漁とコンブ漁の協定がある。
- スケソウダラ・ホッケ・タコ:今回の協定破棄で安全な漁ができなくなりそうだが現在は実際には漁の時期ではない。日本側が前のめりになればロシアの交渉の道具にされかねないのだが、西側と足並みを揃える必要があるため、おそらく日本側の意向を説明して終わりになるだろう。
- サケ・マス:交渉は終わっていたが、試験操業のみという状態が続いていたため今年の漁はやらないことになった。
- コンブ:交渉がまとまっていて6月中旬から漁が始まる予定になっている。今回の件との関連はわかっていない。なおコンブ漁の主体は根室市にある歯舞漁港のようだ。
まずサケマス交渉は4月の末に終わっていた。来月初旬(つまり5月)から漁が開始されると書いているのですでに始まっていたのだろう。漁業協力金は2億円から3億13万円の範囲で支払われる予定になっていたという。幅があるのは漁獲高によって決まるからだそうだ。だが結局漁は見送られることになったそうだ。ロシア側が気を変えて漁船を拿捕し交渉カードにする懸念が払拭できなかったからである。ただし「漁船1隻の試験操業」なので影響は限定的という見方がされている。
次にコンブ漁である。交渉入りは遅れており6月3日になってやっと妥結した。NHKは交渉開始が一ヶ月以上遅れていたと書いている。共同通信も記事を書いている。この時には去年より200万円少ない8800万円で220隻分が操業できるようになったそうだ。本来なら6月1日に解禁されるはずだったため地元の漁協は胸をなでおろしたという状態だったという。今回の問題の影響をどれくらい受けるのかということはまだわかっていない。交渉をずらし相手をあせらせるというのが「いかにも」という気がするが、生活がかかっているため期待せざるを得ない。
ロシアは信頼できないから交渉すべきではないとも感じるのだが、NHKの記事によるとコンブ漁は高齢の漁師が期待を寄せている。長年漁を続けており「今年もようやく操業できる」と胸をなで下ろしていた。北海道側よりも歯舞の方が柔らかいコンブが取れるそうだ。品質がいいコンブを採って稼ぎたいと考えるのが人の情というものである。高齢の漁師たちに「色々ややこしい国際情勢があるのだからコンブは諦めろ」とはなんとな言いにくい。
だがこの「人の情」を揺さぶるのがロシアのやり方である。なんらかの好条件をぶら下げておいて希望を持たせる。そして「ようやく望みが達成された」とホッと胸をなで下ろしたところでハシゴを外すのだ。これは北方領土交渉で散々行われたロシア式交渉術である。そうして知らず知らずの間にあれこれと引き出されることになる。
日本の立場としては本来日本の領海で漁をしても何も問題はないはずである。だがロシア側が拿捕を繰り返し「協力金」という形で資金をせしめることに成功した。今回は一方的に「もう漁はさせない」と言っている。つまり入ってきたら遠慮なく拿捕しますということなのだろう。こうして徐々に自分の主張を既成事実化させてゆくのがロシア流ということなのかもしれない。
今回の一方的な通告を知ると「さすがにこんな国とは付き合えない」と思うのだが、日本側はこのやり方に律儀におつきあいをしてきた。松野官房長官は今回も「粘り強く交渉を続けてゆく」と決意を述べている。だがこれはおそらく漁師たちに偽りの希望を抱かせるだけになるだろう。日本が西側先進国から抜け駆けして経済制裁を解除することなどできはずはない。仮に応じたとすれば「では次は何を解除するのか」と迫ってくるはずだ。
日本政府はこれまでもロシア側の交渉術に取り込まれ多額の協力金を支払ってきた。東京新聞の記事によると日本政府が2016年から6年間で計上した関係協力費は265億円だったそうだ。このうち200億円が支出されているという。もちろんこの予算が全てロシアに献上されたとは思わないのだが、ウクライナ侵攻が始まるまで薄々は偽りであることがわかっても希望を捨てられなかったのである。その結果支出されたのが200億円ということになるだろう。
ロシアに取り込まれ今でもロシアとの対話を諦めない人がいる。日本とロシアの対話の架け橋になった鈴木宗男衆議院議員は今でもロシアとの関係を切ることができていないようだ。批判にさらされているが「対話が重要」といっている。
確かに日本の道徳観念を当てはめれば誰とでも腹を割って対話の道を探し続けることは極めて重要である。日本人特有の優しい気性があり「親密になった国は悪く思いたくない」というのも人情だろう。だがやはりロシア流の交渉術の基本は相手を徹底的に信頼しないことにある。緩衝地帯を作り相手を寄せ付けないようにした上で「取れる分は取ってやろう」と虎視眈眈と狙っている。だがロシアが交渉する相手も同じような態度のためお互いにバランスが取れている。
鈴木宗男氏は高齢の島民が涙ながらに今年は墓参ができるのかと訴えてくるのですと言っている。だが結果的に大勢の漁師たちが、叶うかどうかわからない希望だけを持たされた上に、交渉のカードにされているという冷徹な現実には変わりがない。これが道徳的に良いことなのかということはもう一度考えたほうがいいのではないかと思う。政府は「我々は一生懸命やっています」と説明責任を果たせるが、振り回されるのは交渉をする政府高官ではなく明日の暮らしを立てるために漁に出たいという人たちだ。
今回の場合「サハリン州に対する無償の技術支援」をやらないなら「自分たちの領土・領海」で漁業はさせないといっている。ロシアは人の情と生業(なりわい)を利用して日本に揺さぶりをかけている、交渉する側にはそれなりの覚悟が求められる。