バファローの銃撃についてのニュースを流していると「リプレイスメントセオリー(仮説)」という言葉が盛んに繰り返されていた。アメリカ人の「多く」が信じている陰謀論である。かつてはネットの片隅の陰謀論だったが今ではメジャーな政治報道系番組でほのめかされることもあるそうだ。
今回はこのリプレイスメント・セオリー(正確にはthe great replacement theory)について調べ、その対策を考える。表現の自由が確保されるだけでは国民の知る権利は守られないということがわかる。つまり我が国の政治言論を考える上でも極めて貴重なサンプルと言える。
ニューヨーク州バファローで10名が殺される銃撃事件が起きた。18歳の青年がネットにある情報を鵜呑みにしたために起きたヘイトクライムであろうとの見立てが一般的だ。だがこの青年だけが特殊だったと言うわけでもないようだ。「リプレイスメント・セオリー」が元になった犯罪だからである。
リプレイスメント・セオリーとは政治家たちがある陰謀に加担しており「ネイティブのアメリカ人」を移民に置き換えようとしているという仮説である。この場合のネイティブとはアメリカ原住民ではなく主に白人のことだ。今回の事件ではアフリカ系が狙われたことから考えると主に「白人の置き換え」と理解されていることがわかる。
このような陰謀論は選挙にも影響を与えアメリカの治安も脅かしかねない。そこで各メディアが「リプレイスメント・セオリーとは何か」ということを特集していた。フェイクに騙されないように理論武装しようという狙いがあるのだろう。ABCとロイターが同じような筋で説明を書いている。ABCの記事はDavid Bauderという人によって書かれており様々なメディアで配信されているようだ。
仮説は「the great replacement theory」と呼ばれる。セオリーは場合によって「理論」とか「仮説」とか訳される。日本で「理論」は確定したものと考える人が多いかもしれないがあくまで理論は状況をうまく説明できる仮説に過ぎない。
ABCの記事は「誰が置き換えを狙っているか」については書いていないようだ。だが、ロイターによると「その何者か」はユダヤ人と左翼(社会主義者)ということになっているようである。これに加担する政治家は白人でも「ユダヤ人や社会主義者たちに協力することで自分たちの権力基盤が保証されている」と説明されている。つまり裏切り者扱いになっている。
こうした仮説は南北戦争(アメリカでは単に「内戦」と呼ばれる)以来あったようだ。またフランスでも押し寄せてくる難民がフランスを置き換えてしまうというルノー・カミュの言説が流布しているという。つまり背景にあるのは自分たちと違った容姿の人間を認められないという本能的な「敵味方反応」である。合理的な判断能力が備わった大人でも争うのは難しいだろう。
こうした仮説はもはや侮れないほどアメリカ社会を蝕んでいる。アメリカには表現の自由はあるが表現を制限するような有効な規制がない。本来「国民の知る権利」を守るはずの「表現の自由」だが言論空間を健全に保つ仕組みがなければ却って国民の知る権利を阻害することになると言うことがわかる。
ABCの記事は先週発表されたAP-NORCによる調査を引用して「アメリカ人の3人に1名がこの仮説を信じている」と書いている。
NORCはシカゴ大学にあるリサーチ機関でAPと協力して各種の調査をやっている。科学的リサーチを元に報道の独立性を守ろうという組織のようだ。調査は2022年5月9日のものだ。内容をざっと読んでみた。
- 32%(3人に1人)が特定のグループが選挙のために置き換えを画策していると信じている。
- 29%が移民が増加すると元々いたアメリカ人(native born)が経済的・政治的・文化的影響を失うだろうと感じている。
- 90%のアメリカ人は移民が国を離れる理由は経済、貧困、暴力犯罪だと考えており「福祉が目的だ」と考える人も5人に4名(つまり80%程度)いる。
- 共和党支持者はよりリプレイスメント理論を信じやすい(42%:26%)。また、選挙制度によって白人が差別される懸念があると考える人も共和党支持者の方が多い(38%:25%)。
調査は電話インタビュー形式で行われアメリカに住む18才以上の4173名に実施された。詳しい調査結果はAP/NORCのウェブサイトからダウンロードすることができる。4173名と言うことなので一般的な傾向を知るには十分な数と言える。だが例えば「どの年齢の人が信じているか」とか「収入との相関はどうか」と言うことまではわからない規模の調査かもしれない。
では次にこうした「陰謀仮説」からどうやって人々を守ればいいのだろうかと言うことを考えたい。
まず一連の記事は「今回のバファローのケースはこうした置き換え仮説に触発された」と書いている。その上で、Fox Newsのタッカー・カールソン氏はこうした言説を利用しているジャーナリストの一人だとする。つまり特定の誰かに結びつけることで「一部の極端な人がアメリカ人をそそのかしている」というような論調を作り出そうとしているわけだ。
タッカー・カールソンはロイターでも問題視されている。ロイターによるとかつてはフリンジ(ネットの片隅)で語られるに過ぎなかったこうした陰謀論が今では普通のメディアでもおおっぴらに語られるようになったと指摘する。
一方でカールソン氏はこの「置き換え」という言葉が民主党支持者を刺激することを知っておりショーの中で利用しているようだ。共和党議員の中にも「リプレイスメント仮説は正しい」とする議員がいると指摘されている。
ただ「これだけ広く浸透している以上は誰か一人を非難しても問題は解決しないだろう」ことはわかる。
今回の襲撃事件と時を同じくして今度は中国系の高齢者(68歳だったそうだ)が台湾系のコミュニティを襲撃するという事件が起きた。背景は不明だがバイデン大統領は中国の台湾に対する脅威を喧伝しているのだから全く無関係とは言えないだろう。
特に民主党支持のアメリカ人は「民主主義の守護者であるアメリカが専制主義と戦うために外国を支援している」というナラティブと「アメリカの政治言論が過激な陰謀論者によって汚染されているから平静心を取り戻さなければならない」というナラティブを両立させることで整合性を保とうとしている。どちらも選挙対策である。民主主義と平和な社会を守るためには投票所に足を運んで民主党に投票しようというわけだ。
だがこうした発言は様々なところに反響し予測不能な反応を引き起こす。中には明らかにフェイクとわかるものも含まれている。
こうしたフェイク言論に対して国単位で対策をしている国がある。それがフィンランドである。フィンランドは長い間ロシアの脅威に晒されてきた。このため軍事的には中立を守り、言論ではロシアに遠慮してきた。一方で民主主義を発達させフェイク言論に対する対策も取ってきた。
ライフハッカーの2019年7月の記事では「フィンランドはメディアリテラシー先進国だ」と説明されている。だがこの時点では「フィンランドはムーミンに代表される平和な国だ」という印象しかないために「小国だからきめ細かい対策ができるのだろうな」と考えた人も多かっただろう。
ところがウクライナ侵攻を受け「実はフィンランドもロシアの脅威に対峙してきた」ということがわかってきた。民主主義を浸透させ国民の政治体制への参加意識を高めることもフェイクニュース対策も実はロシアからのプロパガンダ対策だということがわかってきた。つまり民主主義は国防の一環だったわけだ。
TBSが詳しく伝えるところによるとフィンランドでは実際に生徒をフェイクニュースに晒して「自分でどうやって判断するのか」ということを教育するという。繰り返しになるが「お花畑的フェイクニュース対策」ではなく切実な国防の一環だ。自国民がプロパガンダにさらされて間違った意識を持ったり仲間割れを起こしてしまうといとも簡単にロシアに飲み込まれてしまう。
つまり、民主主義を守り国を団結させるためには、表現の自由の確保、国民意識の形成、リテラシの確保がバランスよくセットになっていなければならないということがわかる。
フィンランドには平和な国というイメージがあるが実は徴兵制度があり18歳から60歳までの男性は兵役の義務を負っている。この制度が維持されるためには国民が進んで社会に参加する国でなければならず、そのためには政府の透明性が高くなければならない。
アメリカとフィンランドの違いを見ると、民主主義が成立する上で大切なのは言論の自由だけではないことがわかる。言論の自由を無制限に拡大しても、逆に言論を規制しても根本的な問題は解決しない。結局のところ社会が国の存続をかけて国民のリテラシを高めてゆくしかないわけである。