アメリカの最高裁判所から初稿が流出したという事件がありアメリカでは波紋が広がっている。記事を読んだり英語版Quoraでの様子を調べたのだが「司法が情報を流出されるのは良くない」とする声は少なく「正義のための戦い」である選挙にゆこうという流れになりつつあるようだ。つまり選挙で勝ったほうが正義になるというような雰囲気に飲み込まれているのである。
こうなると落ち着いた政治論争というものは全く成立しない。おそらくこの件は日本ではあまり報道されず関心も持たれないのだろうが「民主主義はどうあるべき」かを考える上で日本人にも参考になるだろうと感じた。
特に強く感じたのは「選挙原理主義」「選挙至上主義」の危険性だ。いったんこの状態に入ってしまうと延々と争いのための争いが続くことになる。
まず情勢をおさらいする。アメリカでロー対ウエイド判決が覆されることを望む人は少数派である。ブルームバーグはギャロップの統計を引き合いに出し「1/5が覆ることを望んでいる」と言っている。一方で中絶の賛否を問うと意見は拮抗するようだ。
まず経済専門のブルームバーグを読む。政治的に中立とは思わないのだが価値観の問題とは距離を置いていると考えるからである。なおこの記事は日本語で読むことができる。
中絶の権利、米中間選挙の重要争点に-最高裁が合法判決を覆すリスク
中間選挙を控えどちらがアメリカの議会を支配するべきなのかという議論に重要な争点が突如浮上した。人工妊娠中絶の権利問題だ。ロー対ウェイド判決を連邦最高裁判所が覆すのではないかとポリティコが報じたのがきっかけである。署名はアリート判事の署名入りで2月に作成されていた。その後、修正が加わったかどうかはわかってはいない。共和党にとっては念願が叶う動きだが、「民主党を支持しなければ長年守ってきた権利を失う」という危機感が醸成されれば民主党側が巻き返す可能性もある。これまでこの問題が争点になるだろうと考える人は多くなかった。
この問題は上下両院の支配権を左右するペンシルベニア・ウィスコンシン・アリゾナ・ネバダ・ニューハンプシャー・ジョージアといった接戦州の状況を左右すると見られるがどちらに有利に運ぶかはまだわからない。
中絶はいかなる場合においても違法とされるべきだとする米国民は5人中約1人にとどまっている。
つまり、選挙に大きな影響を与えるべきだとは考えられているがどちらに有利になるのかはよくわからないという状況だ。
この中に出てくるギャロップの調査はここから読むことができる。ブルームバーグは触れていないがPro-ChoiceかPro-Lifeかという聞き方をすると結果が全く違うものになる。おそらくはこれもポイントの一つになっている。
ここからはCNNの議論を読む。民主党側(つまり人権擁護・Pro-Choice)に大きく傾いた論調である。女性だけの問題だと考えず「大きく人権に関わる」と考えるべきだという論調になっている。また現在のような接戦状況は政治制度の不備によって作られたもので「民意ではない」という論調もあり、民主党支持者・人権擁護派が現在の政治状況に大きな不満を抱いていることがわかる。
An earth-shattering moment for a Supreme Court already on the brink
中絶容認の判例は1973年に確定されて1992年にその核心が再認識された。世論調査もこの方針を概ね支持しており、アメリカに定着してきた。保守派はこれに反対しており特にトランプ大統領が3名の保守派判事を任命してからは先鋭化した。2018年にブレッド・カバーノを押し通した。またギンズバーグ判事がなくなったあとバレット判事を送り込んだ。現在は9名のうちの5名が保守派だ。今回のリーク騒ぎは裁判官の中にあった相互不信感をさらに増大させる可能性がある。裁判長はこれを裏切りと呼び調査を約束した。
ただし保守派の中にも分裂はある。ロバーツは保守派の中で孤立している。判事たちがあまりにも右寄りに傾いたためロバーツは慎重になった。ロバーツは左右歩み寄りの努力をしているようだがこのリークによって状況が混乱する可能性がある。
現在9名中保守派判事が5人で人権擁護派が4名という構成なのだがロバーツ最高裁判所長官は中立ということのようだ。このようにアメリカの最高裁判所の判事(裁判官)が誰に指名されどのような思想信条を持っているのかということはアメリカでは広く周知されている。裁判官の罷免があまり現実的な課題だとは考えられていない日本とは状況がかなり異なる。CNNの論調を見ると今回初稿を出した「保守派」のアリート判事に関してかなり批判的な論調も多い。
Opinion: The real reason America could buck the global trend on abortion
女性が妊娠するかを自分で決める権利を擁護することは世界的な趨勢だ。こうした権利は多くの国では当然のものと受け止められており議論の対象にならない。だが、なぜかアメリカ合衆国ではその流れに逆行している。最高裁判所が数十年前の判例を覆すリーク事件は世界中に衝撃を与えた。ただ、逆転の流れを作っているのは保守ではなく機能不全の政治システムだ。
多くのアメリカ人は中絶は権利であると認めている。だが、政治プロセス上はその意見が反映されない。これは政治が意図した通りに機能していないからだ。その機能不全の原因を作ったのはドナルド・トランプとG.W.ブッシュ両大統領である。また上院も民意を反映していない。すべての州から2名の上院議員を出すために2040年までにはわずか30%のアメリカ人が70%の議員を選出することになるだろうという見積もりもある。
毎年数千名がなくなっているにも関わらず銃規制が行われないのも民意とワシントンにいる意思決定者の間のズレを表している。アリート判事の発したメッセージは「最高裁判所と原理主義的なキリスト教運動が民意に挑戦するものだ」と考えていい。例えばLGBTQの権利も危険にさらされるだろう。アメリカ人の5人に4人はLGBTQの「同性の関係」が合法であると考えているがこうした権利が保護され続けるかどうはかわからない。
Opinion: Conservatives aren’t going to stop with abortion, and this draft opinion proves it
ポリティコの記事はよく読んだほうがいい。民意を失った側の大統領が任命した判事の5名のうち4名が合法的中絶が容認される時代を終わらせようとしているからだ。これから起こることを考えると暗い気持ちになる。アメリカの女性の未来を否定するものになるからだ。おそらく多くの女性が妊娠関係の問題で亡くなることになるだろう。中絶が禁止されれば妊婦の死亡率が21%上がるという統計もある。また女性が中絶下からという理由で投獄されるということも意味している。また「女性を産む機械」と考えるミソジニーの文化を増長させるだろう。
ロー対ウェイド判決は中絶以外の問題にも影響を及ぼす。現在のアメリカでは夫婦間の避妊は合法であると考えられているが中絶反対グループと活動家たちはIUDから経口避妊薬までを中絶と同じようなものだと考えている。訴訟も起こされており一部勝訴した事例まである。また同意に基づく同性同士のセックスや同性結婚に対する刑事罰をやめさせた事例も影響を受けるだろう。
つまり、自分は中絶はしないだろうからこの問題は自分には関係ないと思っている人も反対の意見を表明する必要がある。これは単に中絶の問題ではなく「女性が自分の将来を設計し自分の体を管理し未来に向かって歩むこと」を保証したアメリカ合衆国の法制度が後退することを意味している。
What justices said to get confirmed vs. what’s in the draft opinion overturning Roe
難解な判例文を読んだ人には青天の霹靂かもしれないが長年この問題を見続けてきた人にとってはそれほど衝撃的なリークではなかったかもしれない。
アリート判事は2006年の公聴会以来ずっとローの判例には懐疑的だった。1985年のメモに書いたことは否定しようとしてきたが今最高裁判事としてその決定を下すのかもしれない。クラレンス・トーマスは自身の考えを明らかにしてこなかった。ゴーサッチはこれを「土地の法則(慣習)」だと考えていると証言した。この判例を覆せとトランプ大統領に言われたならその場を立ち去っただろうと言っている。カバナウはローの事件の重要性を認識していると語っている。バレットは自分の価値観は中絶反対だがその考えは脇に置いて判断するだろうと証言した。
ロバーツは妊娠中絶を15週に制限するミシシッピ州法を支持しているようだ。2005年の公聴会ではロー判決は先例として重要視されなければならないと証言している。トーマス、アリート、ゴーサッチとは異なりロー対ウェイド判決を覆すことは考えていないようである。
ここまでの情報を踏まえてQuoraでこのギャロップの統計について聞いて見ることにした。もはや戦闘状態なので「そんなことはテレビを見ればわかる」とか「検索しろ」という回答しかつかなかった。おそらくは裁判所が民意を離れ暴走しているという人もいるだろうし、民意で多数派を形成したからと言ってそれが正義の反映ではないと言いたい人もいるのだろう。だが、外から見る限りは「冷静な言論空間はもはやないのだな」ということくらいしかわからない。
ただし「選挙は民意だ」と考えられているようでこうなったら中間選挙で決着をつけるべきだというCNNに見られるような主張をする人もいれば選挙が苦しいから巻き返しを図ろうとしている民主党側の企てなのだろうという意見も見られる。中間選挙に向けて頭がいっぱいになっているという意味では、参議院選挙が全く盛り上がりを見せない日本とは状況が異なっている。
これがバイデン大統領の発言につながる。バイデン大統領は声明で最高裁が草案通りの最終判断を下せば、この問題は「有権者の手に委ねられる」ことになると指摘し中間選挙で中絶の権利支持派の議員を選出するよう呼び掛けたそうだ。つまり見方によっては「選挙にゆこう」というキャンペーンに利用されており、大勢の人々がそれに乗った発言をしていることがわかる。全体として選挙キャンペーンに飲み込まれている印象を受けるのだ。
バイデン大統領は司法がどのような判断を下そうが選挙にさえ勝てば民意がそれをブロックできるというメッセージを発している。就任の時には「私に投票したアメリカ人だけではなく全てのアメリカ人の大統領になる」と誓っていたのだが、おそらくそんなことはもう忘れているのだろう。だが議会が共和党に握られてしまうと予算を通せなくなる。二年間のレームダック化が予想されるためバイデン大統領はこの争いに負けるわけにはいかない。
最高裁判所のリークという前代未聞の事件はこのようにして選挙キャンペーンに組みい入れられることになりそうだ。仮に中間選挙で民主党が負ければ「全て否定された」ことになり民主党が勝てば「共和党が間違っていた」ことになる。
ただし、全体として信条と信条の戦いになっており「女性の幸せや社会全体の幸せのためにはどのような状態が望ましいのか」などという冷静な議論をする人はもはやいないという印象である。おそらくこの問題だけでなく例えば福祉やインフラ再整備の問題もあまり冷静には語られなくなっているはずだ。
そう考えるとアメリカの民主主義は機能しているとは言えるのだが、それが社会に役立っているのかとか個人の幸せに寄与しているのかということはよくわからない。選挙至上主義とはそういう状態であるようにみえる。