急速な円安が進行し日銀黒田総裁の退任が噂されるようになった。こうなると「黒田後」が取りざたされるようになるはずだ。岸田政権が安倍政権後を見据えてどのような判断をするのかが注目されている。表向きはアベノミクスの継承を掲げている岸田総理だが「本音はどうなのだろうか?」ということだ。
これを知ることができる手がかりが人事だろう。今回は3月に次の日銀審議委員に推挙された高田創氏の「シナリオ分析 異次元緩和脱出 出口戦略のシミュレーション (日本経済新聞出版)」を読んで見ることにした。岸田政権が何を期待しているのかがわかるかもしれないと考えたからだ。高田さんは国会審議を経て順調に行けば(つまり岸田政権に波乱がなければ)7月に審議委員になる。
ただ日銀の人事が変われば出口が自ずから見つかるというわけでもない。結局は政権が明確なメッセージを発出して国民の意識を動かさなければならない。金融緩和策に出口があるのかという問題と岸田総理が出口を見つけられるのかというのはまた別の問題である。
日銀審議委員は日銀の政策を決める政策委員会のメンバーであり議会の同意が必要だ。政策委員会は総裁1名副総裁2名審議委員6名の計9名体制になっており、国会の同意が必要な「日銀の役員会」と言って良いだろう。
現在は安倍総理が指名したリフレ派(積極的な財政政策を通じて景気を下支えする)が多く入っているのだが、2022年3月初旬の記事では「リフレ派が見送りになり高田創さんと田村直樹さんが提示された」と話題になった。日経は「副作用にも配慮」と好意的に書いている。つまり、岸田政権はリフレから財政再建に向けて一歩を踏み出そうとしているという解釈なのだろう。ただ7月23日に任期満了を迎える片岡剛士・鈴木人司両審議委員の後任なので岸田政権の人事が実際に機能し始めるのは夏以降になる。
「シナリオ分析 異次元緩和脱出 出口戦略のシミュレーション (日本経済新聞出版)」が書かれたのは2017年10月だ。黒田総裁の任期が切れる直前に「方針転換」を促す内容になっている。結果的に黒田総裁は再任され政策は継続されたためこの本に書かれたプランが実行されることはなかった。
この本の要約には次のようなことが書いてある。不都合な三つの真実と言っているが最初の二つは同じことを言っているように思える。つまり金融政策決定にはアメリカの経済動向が重要だと言っている。
- 日銀の出口は米国が利下げになるまでの限られた猶予期間しかない
- 日銀は金利ターゲットに転換することで長期の緩和維持を可能としたが、その反面で日銀自身の力による追加緩和は事実上困難であり、緩和の成否は米国経済状況次第である
- マイナス金利とイールドカーブ・コントロールで市場に麻酔をかけているために日銀と市場の対話は困難であり、さらに麻酔は劇薬であるだけに金融システムに副作用が大きい
従属経済というと聞こえは悪いのだが、本の中では日本はヨットだと説明されている。アメリカの経済が強い風を送ってくれる「高圧状態」であれば出口戦略に向けて動けるが利下げを行うと「風が弱まる」ので出口戦略が実施できない。日本経済にはエンジンがなくアメリカという風を受けて走る。ヨットは太陽に従属しているとは言わないので、高田さんとしては「日本はアメリカ経済を利用して動いている」と言いたいのかもしれない。
いずれにせよ高田さんの著作は効果と副作用を明確に説明している。これが日経による「副作用にも配慮している」という見立ての根拠になっているのだろう。経済・金融の専門家には暗視感が高い人事のはずである。
新型コロナ禍下にあった2021年のFRB議長は「アメリカはインフレ下にないので利上げは不適当」との発言を繰り返していた。つまり黒田総裁は出口戦略を実施する環境にはなかった。現在のFRB議長はややタカ派的発言を繰り返しているが本音では「このインフレは一時的なものである」と考えているのかもしれない。こうした状況下で日銀が方針転換をしてもすぐに「はしごを外された」状況に陥ることになりかねないということになる。このためアメリカの動向を正確に探ることは日銀にとっても政府にとっても極めて重要である。
三番目はやや違うことを言っている。もともと黒田バズーカで国債などの積極引き受けをやっていた黒田総裁だが次第に軸足を金利操作に移すようになった。高田氏によればこれは犬のしつけのようなものだといっている。対話が困難という言葉の意味は気になるが特に明確な説明はない。
さらに犬のしつけには二つの含意がある。
高田さんは「アメリカでは比較的高金利が続いてきたので日本の金利を抑えれば円安に誘導できる」と考えたのだろうと解釈している。その上で一旦「しつけ」された犬(日本経済)は低い金利に慣れてしまいその枠内でしか動かなくなるといっている。さらに「麻酔により犬を眠らせている状態」なので金融システムには副作用が出る。犬をしつけた上で麻酔で眠らせるという比喩からこの政策(イールドカーブコントロール=YCCと表現されている)がかなり過激な策であったことがわかる。高田さんがこの犬のしつけという例えを好意的に使っているとはとても思えないのだが特に日銀や黒田総裁を批判するトーンにはなっていない。いずれにせよ犬のしつけで経済を眠らせせていると言っている。
ところが犬の例えにはもう一つ恐ろしい側面がある。局面によっては犬が「野生の本性を取り戻すことがある」と書かれている。そうした環境では米国長期金利の大幅な上昇が起こり円安圧力が強まるだろうというのだ。つまり今(2022年)起こっていることを可能性として予期していたことになる。こうなると日本経済は高気圧どころか暴風に漂うヨットということになる。つまりどこに流されるのかわからなくなってしまうのだ。
ただし、高田さんはそれをあまり否定的には捉えていないようだ。そもそもアベノミクスは「すっかり草食化した経済」に活力を与えるために必要不可欠な措置だったと考えているようだし犬が野生化して暴れ出しても一定の対策はあるだろうと言っている。ここが「もう日本は終わりだ」とか「円は紙くずだ」と考える人たちと一線を画すところだ。
その後、シナリオ分析 異次元緩和脱出 出口戦略のシミュレーション (日本経済新聞出版)の内容はテクニカルな方向に進む。考えられるシナリオについて詳細に検討しているのである。専門家には面白いのかもしれないが経済の門外漢にはよくわからない内容になっている。
現状維持から急速な利上げまで8通りのパターンがある。現状維持にはバツが二つついており「とにかく脱出は目指さなければならない」という姿勢は明確だ。ツールはバランスシートと金利しかないので「これをどの程度のスピードでやるのか」が争点になる。マルが一つ(つまりはこれが高田さんの推すシナリオなのだろう)三角が三つ、さらにバツが三つだ。急速な利上げやバランスシートの縮小にはバツがついており「時間をかけて出口を目指すべきだ」という姿勢が明確に示されている。ただし政府財政の方に重きが置かれている。つまり金融機関はある程度の期間苦しい経営が示されるということになる。
ただかなり詳細に検討されている上に読んでいるこちらも難しいことはわからない。「だったら面倒なことを考えず高田プランで行ってもらっても構わないのではないか?」と思いながら斜め読みをしていた。事前に「副作用にも目配りをしている」という日経新聞の記事も読んでいたので「それで構わなないではないか」と考えたのだ。
だが本の最後はこう締めくくられている。今後、出口に向けて、日銀・財政・金融機関の「3方よし」の細い道筋をたどる必要があるというのだ。ガラス細工のように極めて細いナローパスだと言っている。
つまり、政府がきちんと国民に説明し金融機関とも調整して進めないと「永遠に出口に向かえませんよ」と言っていることになる。高田さんによればアベノミクスはバブル崩壊後に沈滞した空気を変えるのに必要だったが、やはり出口は探さなければならない。さらに付け加えれば日本経済はヨットなのだから風があるときに「さあ出口を目指そう」としなければいけない。つまり日銀に政策を丸投げしておけば勝手に安全運転で出口に向かってくれるということにはならない。思わぬ突風が吹き国民が動揺するということも考えられるヨットなのだ。
安倍政権の「三本の矢」は金融政策こそ意図通りに作用したがそのほかの「矢」にはあまり効果がなかった。日本経済の競争力を回復し同時にデフレマインド(低成長への慣れ)を払拭することが出口に向かう必要条件になっているからである。
安倍総理は「とにかく難しいことは考えずに自民党にお任せで構わない」という国民の期待をうまく利用してきた。だが岸田政権がこの態度を継承してしまうといつまでも出口を見つけることができないということになりそうだ。金融政策は国民経済を動かさない。単に政権がやりたいことを支援する存在でしかないからである。結局のところ総理大臣が方向性を決めて国民を説得した上で人事を通して日銀の内外に明確なメッセージを伝えなければならないということになる。「岸田総理にその意欲と能力があるのか」というのは「出口があるのか?」というのとはまた違った問いになるのだろう。