ゼレンスキーの国会演説が終わり一通り感想を見てみた。様々な評価があるが概ね「薄味であった」という印象の人が多いようだ。他国に対しては具体的なお願いをしていたのに日本には具体的なお願いがなかったからだろう。
前回のエントリーで書いたように、この演説の肝の少なくとも一つは「実効性のある戦争抑止の仕組みの構築」にあると思う。最初に演説を聞いた時には戦後を見据えていると思っていたのだが、後でウクライナの専門家が訳したものを読むと「今すぐ着手してほしい」と言っているようにも読める。ツールではなく保証の枠組みという意味の提案だったようだ。
だがこの提案が日本人に受け入れられることはなくあらかた無視されてしまった。代わりに目立ったのはこのような感想だった。
- インドや中国といったアジアの大国がロシア包囲網に加わっていないので日本には頑張って欲しいのだろう。本音ではお金を引き出したいだけに違いない。日本は世界のATMだ。
- なんだかよくわからないが日本の被害者感情に訴えかける部分だけはよくわかった。おそらく日本には何も期待していないのだろう。
- 日本側の戦争をやりたい勢力がゼレンスキー大統領の人気に乗って戦争協力に突き進むのではないか。戦争になってしまったウクライナのことは忘れて目の前の護憲運動にだけ集中しよう。
確かにウクライナと日本は遠く離れている。ゼレンスキー大統領もあまり具体的な日本のイメージはつかめていなかったのだろうなという気はする。メッセージの前段は感謝の念を伝えるという儀礼と日本人にウクライナ戦争を他人事ではなく自分ごとだと思って欲しいという共感を呼ぶ「話のまくら」であって実際にはそれほど大きな意味がなさそうなのだが、日本人は「何をお願いさせるのか」「何を非難されるのか」と怯えていたために話の後半部分はあまり耳に入らなかったようだ。
さらに気になったことがある。国会議員たちたちの対応だ。平和主義のありがたみを忘れ目の前の選挙のことしか念頭にない。心ここに在らずといった様子で、全く演説を聞いていなかったようである。
まず外交のトップである林芳正外務大臣だ。マスクの下であくびをしていたという画像が流れてきた。本物なのかフェイクなのかは分からないが彼が気にしているのはアメリカであってウクライナではないということがよくわかる。おそらく岸田総理も林外務大臣もウクライナにはあまり興味がないのだろう。
山東昭子参議院議長の命をも顧みず祖国のために戦っている姿を拝見してその勇気に感動しておりますというスピーチは「平和を希求するゼレンスキー」ではなく「戦うゼレンスキー」という事前の思い込みが反映されたものになった。結果的にゼレンスキー大統領の演説の内容を全く聞いていないということを告白したスピーチになった。
スタンディングオベーションが指示されていたという情報もある。おそらく演説の内容よりも「どう振る舞うのが今後の選挙に良い影響を与えるのか」という点が重要視されていたのだろう。欧米もスタンディングオベーションだったから「そう聞くのが正解なのだろう」と理解されたものと思う。徹底的に自分で考えることをしない我が国にふさわしい議員たちの行動であったと言えるだろう。
これまで日本は70年以上戦争に巻き込まれずにきた。高度経済成長期には国力を産業に全て振り向けることができると感じられていたのだが高度経済成長が終わりバブル経済が崩壊した頃から「何か間違えてきたのではないか」という意識から抜け出せなくなった。そして「普通の戦争ができる国になりたい」とも感じるようになる。その結果「とにかく自分で考えず人からどう見られているかだけを気にする」という情けない国会議員たちが生まれた。
ひたすら面倒に巻き込まれることを避け国際社会にどう見られているかという体裁ばかりを気にしてきた日本は平和主義にうんざりしている。「祖国独立維持のために戦う」ウクライナの大統領に眩しい視線を送る人もいる。何かの実現のために戦ってその陶酔感の中に浸りたいという人たちである。
ウクライナその意味では対称関係にある国だといえる。彼らは日本をこれまで戦力を国力維持・拡大のために使わず国民の努力と経済活動だけで「のしあがった」国であると見ている。軍事的な支援は期待せず復興と戦争抑止の枠組みの構築に期待している。彼らが日本に戦争のない世界を実現するために大きな期待を寄せるのは当たり前だ。日本は終戦から立ち上がり大きな震災からも復興したたちかな実績があるからである。
だが残念なことに、日本人自身がこの輝かしい実績を過小評価している。他人からの見た目を気にしているようでいて、実際には他人から高く評価されていることに気がつかないという皮肉がある。
ゼレンスキー演説についての感じ方は人それぞれなのだろうが、何を感じたかというより「何を無視しようとしているか」とか「何を感じられなかったのか」という点に意味があるのではないかと思ってしまう。自分たちが持っているのののありがたみに我々はなかなか気がつかないのである。