ポーリシュカ・ポーレという歌を音楽の時間に歌ったことがある人がいるだろう。実はあれはロシア赤軍の活躍を歌った軍歌である。学校ではその背景が知られることはなく単にロシア民謡として習ったはずだ。
では、なぜそのような歌が日本に紹介されたのだろうか。あるいは学校教育の現場で日教組が日本人を洗脳しようとしていたのか。気になって調べてみた。
共産主義のプロパガンダだったうたごえ運動
うたごえ運動は戦後日本に共産主義を広げるための普及活動として始まった。いわばプロパガンダだ。娯楽の少なかった労働者階級の若者にレクリエーションの機会を与えて組織化を図るのが狙いだったと考えられている。氾濫するアメリカンポップスに対抗し日本の民族主義を高揚させる狙いもあったようだ。GHQはアメリカの音楽をはやらせようとした。また日本人も進駐軍の持ち込んだジャズのような音楽を好んで聴くようになった。その一方で抵抗運動として労働者階級の若者もうたごえ喫茶に集うようになる。
東西冷戦を背景とした歌の争いは1960年代に入ると別の様相を見せるようになる。フォークソングと呼ばれる分野の音楽が反戦運動と結びついた。この運動とうたごえ運動が結びついてもよさそうなのだが、フォークソングはアメリカ発祥の音楽なのでむしろ敵対視されていたという人もいる。
うたごえ運動が一定の評価を得るようになるとレコードとして売り出そうという動きも出てくる。この時にソ連と共産主義の臭いを歌詞から消すという作業が行われたようである。
ネットを検索すると「戦後日本における「ロシア民謡」の受容と変容ー訳調はいかに作られるかー」という論文が見つかった。千葉大学大学院人文社会科学研究科の浜崎慎吾さんの研究である。ポーリシュカ・ポーレのみならずこの時代のロシア音楽は元の歌詞から共産主義・社会主義テイストを除きまた軍歌特有の好戦的な表現を削除・改変してある場合が多いそうだ。
ロシアに親しみを持たせ共産主義への拒絶反応をぬぐい去ろうという意図から始まった音楽が大衆に浸透する過程でオリジナルの意味を失ってゆく。「アメリカの音楽を世俗にまみれた音楽」を忌避した教育関係者が「本物の歌」を教育現場に持ち込もうとしたものと思われる。
このため日教組のような団体が組織的にロシアの軍歌を持ち込んだというような見解を見つけることはできなかった。
ポーリシュカ・ポーレの時代とウクライナ争奪戦
それではポーリシュカ・ポーレの時代、すなわちロシア内戦とはどのような時代だったのか。これを見てゆくと現在のロシアのウクライナ侵攻の裏にある事情がもう一つ見えてくる。
ロシア内戦はロシア革命が1917年にドイツとの間で結んだ条約をきっかけに起きた内戦だそうだ。ロシア帝国が崩壊するとロシアは第一次世界大戦が継続できなくなる。そこでドイツと条約を結び戦争を降りてしまった。
この時にドイツと講和したロシアは、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近を失った。つまりロシア帝国回復論者たちはこの地域を再びロシアのものにしたいと考えている。
特に重要なのはウクライナだった。ロシアは穀倉地帯ウクライナを必要としていたのだが、独立して国家を構えたいこれらの各国はドイツの保護のもとであってもロシアから独立する道を望んだ。同じ東スラブ系なのだが非差別意識があったのだろう。ここから徐々に国民感情・民族感情が芽生えてゆく。同じころオスマン領内でもスラブ系の独立運動があった。
ドイツが第一次世界大戦で負けるとこの地域を巡りポーランドとロシアは戦争状態に入る。ウクライナはロシア側が奪還したがその他の地域はポーランドの支配地域となった。バルト三国などをロシアが再奪還するのは1939年だそうだ。現在中立政策をとるフィンランドもこの時にカレリア地方の一部を失った。
ロシアはこの時赤軍と白軍に分かれて戦う。赤軍側は英仏日米の干渉を受けたが最終的に赤軍側の勝利で終わった。旧支配者階級の白軍が農民の支援を得られなかったことが敗因とされているそうだ。ロシア人が「外国から内政に干渉された」という歴史はその後のロシアにとってトラウマになってゆく。
この内戦でロシア飢饉が起きた。1922年から1923年ごろの話だ。レーニンのロシア政府は食料独裁を行い国家総動員体制を敷いた。農村から食料を奪取し都市に持ってくるという政策である。
この政策が施行されてから約10年後の1932年から1933年にまた飢饉が起こりスターリンはウクライナから食料が収奪した。ウクライナはこのころはもうソ連を構成する一共和国になっていた。この食料収奪はホロドモールと呼ばれウクライナ人がロシア人を恨む原因となっている。
ウクライナをめぐっては古くからロシアとヨーロッパの間で綱引きが行われていた
今回のプーチン大統領のクリミア侵攻から始まる一連の流れをロシア側から見るとロシアとヨーロッパの間の中間地域が常に争奪地になっていたという歴史があることがわかる。もともとロシア領の穀倉地帯として管理されていたウクライナは一度ドイツに奪われその後でポーランドとの間で奪還戦争が起こる。ソ連時代はソ連の構成国だったがソ連が崩壊すると再び西側への接近を始めた。ウクライナの辺境住民がモスクワに差別されているという意識があったのだろう。
ロシア帝国の再興を狙っていると思われるプーチン大統領にとってみればウクライナは不可分のロシアの属領なのだろう。一方で、ウクライナはロシアからの支配を抑圧と考えており度々その影響下から逃げ出そうとしている。ただ独力ではロシアの支配から逃れることができないためドイツやポーランドといった外国を頼りにする傾向がある。
おそらくヨーロッパのNATO加盟国はこの辺りの事情をよく知っておりプーチンロシアを刺激しないような対応を取ろうとしていたものと思われる。だがここに歴史的経緯を知らないアメリカが迷い込んできたため話が複雑化した。ぜレンスキー大統領の前のポロシェンコ大統領をNATO加盟に向けて焚きつけたのはバイデン副大統領だと言われている。おそらく事情を知らないままこの地域に介入した。歴史を知らずに地域に介入するなど、決してやってはいけないことだった。
百万本のバラ
さて、ポーリシュカポーレを調べていて百万本のバラという歌を思い出した。あれもロシア民謡だという記憶があったので「元は軍歌」かもしれないと思ったのだ。だがそれは思い違いだった。百万本のバラは元からポップソングなのだそうである。
なんとなくフォーク歌手のようなイメージのある加藤登紀子だが、もともとは歌謡曲歌手だったようだ。学生運動の闘士と獄中結婚したために学生運動のイメージがあるのだが本人がうたごえ歌手だったりフォーク歌手だったりしたことはないようである。
この人の有名な曲に百万本のバラがある。なんとなくこれもロシア民謡・ソ連歌謡のように思えるのだが実際はラトビアの歌がソ連で流行したものを加藤が日本に紹介したらしい。時代も歌声喫茶の時代ではなく1981年にラトビアの歌謡コンクールで歌われたのだそうだ。加藤の訳詞はヴォスネゼンスキーのロシア語版を元にしていてラトビア版とは無縁のよう。
ラトビア語版はロシアとヨーロッパの間で揺れ続けたラトビアの苦悩を歌っている。だがこれがソ連に入ると恋愛の歌に変わった。加藤の訳詞はそれを受けたロマンチックなものになっている。
おそらくこの時代にはすでにうたごえ運動は遠い昔の記憶となっていたに違いない。そうしたノスタルジーがこの歌に独特の雰囲気を与えているかもしれない。後になって見ると軍歌由来の歌も民謡もポップソングも「なんとなくソ連風」の歌として同じジャンルに思えてしまうんだなと感じた。元々の由来は消しられ日本風に受容されてしまうのだ。