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安倍政権を支えてきたアパシーとその潜在的な狂気について改めて考える

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プーチン大統領とそれを支持する人たちを見ていると「無力感」が作り出す補償作用がいかに危険な状態を作り出すかということがわかる。改めて安倍政権とそれを支援していた人たちの病理と重ねてその構造を明らかにすべきだろうと思った。

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プーチン大統領の行動の背景には二つの異なる感情がある。

  • ロシアは経済的に劣っており西側諸国との経済戦争に負けた。そのため各国はロシア支配を脱却し西側になびいている。さらにロシア人もスターリン自体からの年金に頼りきり経済を強くするために貢献しようとしない。
  • ロシアは強い帝国を維持してきた偉大な民族である。さらにナチの侵攻を食い止めた輝かしい歴史も持っている。大ロシアはベラルーシや小ロシアと協力して偉大なロシア帝国を再興すべきである。

インナーサークルの中にあるアパシー(無力感と無気力)が誇大な妄想によって補償されるという状態である。おそらく民族の栄光の歴史は過大に評価されておりこうした状態で過去の成功体験だけが選択的に採用される。

その結果起きたのが無謀なウクライナへの侵攻だった。ただそれだけでは飽き足らずにメディアが「フェイクニュース」を流すのを規制する法律を作り自国民に都合の良い情報を流し始めたそうだ。BBCによるとロシアのテレビでは「ネットに出てくる情報は経験の浅い視聴者を欺くために流された虚偽の情報である」と盛んに宣伝されているそうである。ジョージ・オーウェルの名作「1984年」(今はKindleでも読めるそうだ)の世界が展開されている。


安倍政権もバブル崩壊に対応できず金権政治の打破にも失敗した自民党政権が下野したところから補償を働かせ始めた。おそらく安倍元総理の中にはもともと素地となる気質があったのだろうが「批判をエネルギーに変える」と表現される補償行為が政権を動かす基本原理となった。

安倍総理がやったことは人事の掌握だ。官邸が人事を掌握したまでは良かったが彼らでは問題に対処できなくなり「アベノマスク敗戦」へとつながってゆく。インナーサークルへの傾斜と無能力化いうのも今回の基本パターンにそっくりである。

もちろん安倍政権とプーチン政権には違いがある。個人の独裁が許容されるロシアと違い日本は強いリーダーシップを集団が絡め取って無力化するという性質がある。憲法第9条ではなくこの集団によ流リーダーシップの無力化が日本を平和で停滞した状態にとどめている。

おそらく今の自民党の多数派は単に既得権を守るために安倍気質を利用しているだけであってこうした極端な声をメインストリームにするつもりはないのだろう。憲法審査会を見ても「穏健なところ」に落とし込んでゆこうとする無力化の姿勢がある。岸田政権も実は中国やロシアに対して強く対峙しようというつもりはなさそうだ。

だが、岸田総理は表向き「改憲議論を推進する」と言っている。維新にこの層を奪われるよりはマシだと踏んでおり、それを利用できると考えているのだろうと思う。つまり多少危険な存在ではあるが選挙に役に立つのなら遊ばせておこうという気持ちがあるのだ。

この侮りは危険だ。


自民党は彼らが持っている無力感を過小評価していると思う。世の中に絶望した人々の怨念というのは時にとんでもない方向に向かい、社会を根本から破壊しかねない。

おそらく安倍元総理もまた「これは利用できる」と考えているだけなのかもしれない。自分が政治的にスポットライトを浴び続けるために少々危険ではあってもコントロールできるエネルギー源を見つけたくらいに考えているのではないかと思われる。つまり、政治家本人がそれを信じているというよりは「賢く利用できる」と考えているだけなのだろう。

だがそれはどうかなという気がする。

プーチン大統領の軍事攻撃を見るとその行く末もなんとなく予想ができる。こうした物語に彩られた人たちにはもう一つの側面がある。他人を犠牲にして自分たちの歴史観を本物の歴史にしようとする作用が働くのである。無力感によって補償された強固な自己は倫理感情や共感を失って変質するのである。

プーチン大統領の軍隊は徴兵制の軍隊だ。徴兵制が必ずしも弱い軍隊とは限らないのだが、今回は演習だと言って連れ出された兵隊が言葉が通じる人々に銃を向けた。彼らは歓迎されると説明していたが実際にはファシストと罵られている。さらに2015年に賞味期限が切れた食料を持たされていた人たちもいて戦地で盗みを働かなければならないような状態に追いやられている。

愛国者だと説明されていたのに実際にはファシストであり盗人であるという状態になっている。つまり、プーチン政権は自国民を捨て駒にしている。

そればかりか、ロシア国内には懲罰として戦争を利用しようという人たちもいる。読売新聞はこう書いている。

一方、極右政党・自由民主党は3日、反戦デモに参加して拘束された国民を徴兵し、ウクライナの前線に送ることを定める法案を議会に提出した。法案は反戦デモについて「露軍と国の指導力の信用を傷つける試み」と明記。「ウクライナの現状を知る」との名目で、ウクライナ政府軍との戦闘が続く、東部の親露派武装集団の実効支配地域に派遣するよう求める内容だ。

ロシア「軍に関する虚偽情報」で禁錮15年に…反戦デモ参加者を徴兵、前線に送る法案も

ロシアの自由民主党(名前はたまたま我が国の自民党と同じなだけだと思うのだが)はそもそも戦争を懲罰だと考えている。デモ参加者を最前線に送り出しても兵力になるはずもないのだが、そもそも捨て駒なのだからそれでも構わないという本音を開陳してしまっている。

無力感の補償作用の恐ろしさがここにある。彼らは自分たちの歴史観を現実にするためなら他人が被る損害を極めて低く見積もる傾向にある。自己の補償が優先され合理的な判断が歪んでしまうのだ。

ヨーロッパ最大の原子力発電所が攻撃されたのはその一例だ。自分たちは優秀なのだから「大惨事を引き起こさずに原発を掌握できる」と考えたのだろう。次に考えることも予想ができる。多少の核兵器を使っても自分たちはうまくコントロールできると彼らは考えるはずだ。

護憲派はこうした狂気を全て憲法第9条で防御できると考えているようだがおそらくそうではないだろう。現実を無視しリスクを過小評価する人たちが政治を支配するようになれば、憲法の条文などその気になればいくらでも変えてしまえるからだ。

無力感にとらわれて作られた歴史観はやがて他人を犠牲にしてでもこれを本物の歴史にしようという欲望に変わる。それを防ぐことができるのは我々一人ひとりの確固たる意志だけである。これからも歴史的妄言はなくならないのだろう。単にそれを許すなというのではなく、その裏にある構造を理解するように努めなければならない。

それにも増して、我々は一人ひとりが自分の中にも喪失感を抱えているということを自覚すべきだろう。つまりどんな人であっても無力感の補償として過剰な自己を政治に投影してしまう可能性があり、おそらく実際に何らかの形で同じようなことをやっているはずだ。

これが奇妙な形でお互いに呼応してしまうと政治論議は問題解決の手段ではなく単なる自己防衛のための不毛なやり取りになってしまうのだろうと思う。

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