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広島少年院暴行事件 – 現在のミルグラム実験

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ひさびさにアクセスで拾ったネタ。広島少年院で元首席専門(47歳)を含む4人が、特別公務員暴行凌虐の疑いで逮捕された。複数の教官を集め、目の前で暴行を加えさせていたのだという。首を絞めたり、塩素系ガスを吸わせようとしたりと「やりたい放題」だった。この人は1996年に仕事をはじめ、2005年に安倍首相の訪問を受ける。今回発覚した事件は2008年から2009年の115件のうち42件だそうだ。結局事件が発覚したのはこの人が奈良に転任してからだった。
中国新聞の記事によると発達状況に応じて処遇を実践するプログラムを生み出し、模範少年院だとされていたようだ。
この事件について読んでまず「ミルグラム実験」を想起した。ミルグラム実験では人に指示を与え、電気ショックのつまみを回させる。実際に電気ショックにかけられる人たちはサクラで、大いに苦しんでみせる。最初は「こんなことをしてはいけないのでは」と言っていた被験者も、最後には平気でつまみを回すようになる。役割が倫理を吹っ飛ばす瞬間だ。同類の実験に「スタンフォード監獄実験」というものがあるのだが、こちらは囚人役に対して監視役が度を過ぎた対応をするようになり、やがて実験を中止せざるを得なくなる。
今この「ミルグラム実験」関連で懸念されるのは裁判員裁判だ。もう少し見てみないとわからないのだが、普段は雲の上の人だと思っている裁判官に丁重に扱われると「一般の市民」は簡単に権力側に寄り添った価値基準を持ってしまうのではないだろうか。裁判員裁判の報道はわかりやすい裁判、時間のなさが主な関心事になっているが、いわゆる一般庶民が権力に寄り添った時どんな行動を取るようになるのかを、時間をおいて検証した方がよいだろうと思われる。また裁判員たちは「これが終わればこの緊張から抜け出せる」と考えるはずで、だったら裁判官に言われるとおりのことをしておいたほうがいいと思うかもしれない。裁判官は裁判官で「これは市民のお墨付きを得ているのだ」と考え過激な判決に傾くことも考えられる。集団無責任体制が生まれてしまうだろう。
さてアメリカやヨーロッパの社会学者はナチの残虐性に震撼して(もしくはそれを説明しようとして)ミルグラム実験を行なった。ミルグラムはユダヤ人だ。この種の実験は、最近ではアブグレイブに震撼した人たちの間で見直されている。つまり人々の間に「(誰か他のヒトではなく)我々は実は恐ろしい存在なのではないか」という懸念と「いや、やはりそうであってはいけない」という意識があるように思える。被害感情に訴えるのではなく、出来るだけ科学的に証明しようという点にこの実験の重要性がある。
翻って見ると日本では「これは誰か他のヒトの事で」「悪い事したんだから人権なんかなくてあたり前」という見識に触れることがある。アクセスのコメントでも。被害を受けた収監者に対して「ざまあみろ」という意見が散見された。これが単に日本の「人権教育が足りない」のか「自尊心が低下している」(ある意味アブグレイブ化している)のかが懸念される所だ。つまり「実は規範や倫理に関して、かなり危険な淵に立っているのではないか」という懸念です。実は少年院で起きていることよりも、こちらの方が危険だと思われる。
さてこの論題では「再犯率の低い」「あの」広島でというのがクセモノだった。ミルグラム実験が示唆するところは、我々は条件さえ整えばかなり残虐なことをやりかねない存在だということだ。それは実は成果とはなんの関係もない。
一方、確かに成果が上がることにより監視が甘くなる可能性はある。成果主義の危険の一つは、専門性のあるスタッフとマネージャー(この人たちは業務についてはよく知らない)の間に知識的なギャップがあり、成果が上がっていることにより隠蔽されてしまうということだ。金融機関で時々こういう問題が起こることがある。マネージャーは問題には敏感なのだが、平穏な状態には注意を払わない。逆に成果が上がれば何をしてもいいだろうと考えた可能性はあるかもしれない。
今朝になってアクセスのページを見てみると、「少年院に入ったくらいだから何をされても当然」という意見には影響を与えることはできるようだ。放送が始まってからの書き込みを見るとすこしずつトーンが沈静化している様子がわかる。これもグループダイナミクスの一つだ。空気を読みつつ意見を変えてゆく人たちが少なからずいる。
人が「群衆」化を防ぐにはリーダー、管理者、有識者といった人たちの果たす役割が大きい。
若干権威主義的なアプローチだが「アメリカで行なわれた社会実験によると…」というのも、特定の人には効果がある。そういった訳で、多分この設問じたいがちょっとした社会実験になっているように思える。