眼の誕生にも書かれていたグルードのワンダフル・ライフを読んだ。時代的にはちょっと古い本で、スティーブン・ジェイ・グルードもすでに亡くなっている。本はバージェス生物群についてを扱ったもので、カンブリア大爆発よりちょっと後の次代の生物だ。とりあえず彼の主張はこう要約される。
生命はたくさんの枝を分岐させ、絶滅という死神によって絶えず剪定されている樹木なのであって予測された進歩の梯子ではない。
これだけ読むとなんだかあたりまえのような気もするが、人間がこのようにすべての生物を支配できるのは人間が優れている(霊長)からだと信じていた人たちからすると、かなりショッキングな主張だったようだ。
グルードたちの考える進化は、悲運多数死(トライ・アンド・エラー)の時期があり、それが次第に安定するという姿だ。この考え方はアメリカ人の考えるイノベーションに影響を与えている。最初に試行錯誤の状態がある。規制を緩やかにして変化を誘発する。それを煮詰めていって生き残る製品を絞り込むというやりかたが取られる。必ずしも「デザインされた方向がある」というわけではないと考えるのが、この流派の進化観なのだ。なので人間が生まれたのも「単に運がよかっただけ」ということになる。
ちょっと脇道にそれるが、これは植物が伸びてゆく姿と少し似ていて、すこし違っている。植物は重力や日光といった伸びる方向が決まっている。しかし風が吹いて枝が折れれば脇から芽が(この場合たいてい数が増える)伸びてくる。もし、主になる幹が折れていなければ、脇芽は伸びなかっただろう。半分デザインされているが、事故にも対応できるのが実際の生物なのだ。
さて、グルードはどうしてバージェス生物群のような多様な生物群がこの時期に生まれたのかについて明確な回答を出していない。フロンティア(ニッチ)が多くあり、遺伝システムが比較的単純(もしくは変化に対して脆弱だったのかもしれない)だったということを挙げつつ、ステュ・カウフマン(本の名前などは言及されていないがスチュアート・カウフマンの自己組織化と進化の理論を示しているものと思われる。)の論に少しだけ言及している。
こうした進化・イノベーション観は日本人が持っている改良型のイノベーション感とはかなり異なっている。日本人の場合、既にでき上がった素地があり、それを地道に改良することによって、ある目的に達するというのがイノベーションだ。あるいはある目的のために試行錯誤を繰り返し、ブレイクスルーになる技術に出合う事で目標を達するというイノベーションもあるかもしれない。どちらにも、「明確な目的」が存在する。(多分、プロジェクトXを見るとこうした話がたくさんでてくるのではないだろうか)
しかしコアになるなんだか面白そうな製品がありこれは何かに使えないかというアプローチのイノベーションにはあまり興味がないようだ。それから市場を新しくつくるということはあまりしてこなかった。とりあえずたくさんアイディアを出してみる多産型のイノベーションも効率が悪いといって嫌う傾向があるかもしれない。
はてなあたりでささやかれている、現在「希望がない」という世界観は、ニッチがうめられていて新しい進歩の余地が残されていないことを意味しているのだと思う。漸進的な変化はやがて究極層に行き着いてしまい(パソコンのCPUはこれ以上早くなっても意味がない)クリステンセンのいうイノベーターのジレンマに陥ることになる。
さて、この本のもう一つの魅力は、奇妙な生物とそれを巡る人たちのお話だ。つまりグルードの主張はともかくとして読み物としてもとても面白い。とくにアノマロカリス(奇妙なエビという意味だそうだ)の姿はプラモデルっぽい。形も大きくてかなり気持ちの悪い生き物だったろう。多くは絶滅してしまったので、悲運多数死は出来損ないをつくるだけだという気がしないでもないが、こういった生物を眺めるだけでも結構楽しめる。そしてこのようなへんてこな生物がまぎれもなくかつてこの地球上にいたということが生き生きと描かれているのが、この本が人気を博した理由だろう。