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ヨブのいない世界に戻れるか?

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ヨブ- 奴隷の力という本を読んだ。著者はアントニオ・ネグリという左翼運動だ。逮捕されて、国会議員に当選、その後特権を取り消され、フランスに亡命したという人(後イタリアに帰って服役)が考えるヨブ論なので、よくわからないところが多い。特にマルクスはよくわからない。ネグリは「数値にして計る」世界を起点にしてヨブと折り合いをつけようとしている。だが、多くの人にとってヨブがこれほど問題になるのはどうしてか。
このヨブという人、神を信じていたにも関わらず、悪魔からそそのかされた神様にこてんぱんにされる。完璧な絶望の中で人がどういう境地に陥るかというお話である。
日本の自然神道にはヨブはありえない。神様はもともと赤ん坊のように不合理な存在だし、何か悪い事があれば「神罰が下った」と考えるからである。悪い事があってもなくても厄年にはお参りする。ある信仰を守るためなら神道の形をとっても仏教の形をとってもどうでもいいと考えてしまう。ロゴスがなくても形式さえ整えば信仰は保持できるのである。
ヨブのような存在が生まれるのは、聖書の神様が「論理」だからである。論理は光のようなもので、光がさす所には影も生まれる。だから「神の論理に従ったのに」「とことん不幸だ」という人の存在が問題になるのだ。しかもタチの悪い事に神はヨブを殺さない。神の恩寵がないのに、そこに存在するわけだ。
ネグリはヨブ的な存在に二つの解決策を用意する。「連続的にこの論理の中にいるか」「非連続にそこから逸脱するか」である。この逸脱こそが、創造性の恐ろしい側面である。神の範疇にない唯一の存在なので、彼の理解者は一人もいない。これは聖書を読んでみると良くわかる。

私たちを転倒させる悲劇を基盤として、人間の創造的力を照らし出すのは、後者のシステム(注:非連続的なもの指す)である。私がヨブと呼んでいるのは、創造性、こうした理性の希望と危険である。

キリスト教には論理がある。新約聖書には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という文章がある。言葉によらないものは一つもないのである。
ヨブは希望を持っていた。しかしそれは奪い去られ、人や神と言葉による対話を重ねるものの、ついには沈黙を余儀なくされ「私にはわからない」と告白する。しかし同時に、今まで耳で聞いたしかない神を見ることになるのだ。すると嘘のように災いは去る。論理を越えたところで、最後に神は鎮まった。ここに矛盾はないのか。このように、ヨブ記はいくつかのロジックが積み重なり、全体としてどこかを崩すか、そこを越えてみないと解けないようなパズルを構成している。
さて、ヨブの苦悩を取り去るために、日本の神道のような世界に戻る(何か悪い事があったら、それは罰だと考える)ことができるだろうか。そもそもヨブとヨブの友人たちが「神の論理」を見なければ、ヨブの苦しみはなかったはずである。しかし、残念ながら一度知ってしまったものを「忘れる」ことはできない。
ヨブ記が教えてくれるのは、「それを知っていて」「そこから逸脱してしまった人たち」だけが、それを乗り越えることができるということだろう。聖書はそんなことは言っていないが、ヨブに触れることで神は以前のものとは違うものに変質してしまったといえる。それがヨブの創造性の本当に破壊的なところだ。ヨブを持たない世界にはこの破壊力はない。


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