国家主義の犠牲者 – カミラ・ワリエワと羽生結弦

カミラ・ワリエワ選手がドーピング騒動の渦中にある。トリメタジジンを服用していた疑惑があるのだそうだ。これを見て「ワリエワ選手と羽生結弦選手は同じ構造の犠牲者だな」と感じた。さらに検体に複数の治療薬が使われていたことも明らかになった。明らかな虐待だ。






ページ数を稼ぐなら「ロシアは国家がらみのドーピングをやっているスポーツ虐待国家だ」と書くべきなのだろう。他者に攻撃を向けることでかりそめの安心感を得る人たちがたくさんいるからである。だが、やはり同じ構造が日本にもあるという事実は無視できない。そこで日本も虐待国家だと書くと今度は読んでもらえなくなる。悩ましいところだ。

ロシアはドーピング問題でオリンピックへの参加を禁止されている。救済措置としてROC(ロシア・オリンピック委員会)の名前で競技への参加が認められているのみだ。だがこれも実は国家の隠れ蓑になっているということが今回わかったわけだ。国際オリンピック委員会は美しいスポーツ祭典をアメリカの民主主義者に売り込む舞台裏で国家主義者とも結託してきた。どうにか舞台裏でジャグリングをしてきたわけだがついにボールやピンが音を立てて地面に落下したことになるだろう。

クリミアが併合された2014年はソチオリンピックの年である。ロシアがオリンピックを国家意識高揚の道具に使っていることは間違いがないだろう。今回の北京冬季オリンピックもロシアの勝利とウクライナの勝利を重ね合わせることができるはずだった。

ロシアがまだソ連だった頃の共産主義陣営は「自分たちこそ正しい陣営だ」と証明するためにオリンピックを利用してきた。選手への薬物投与は当たり前で大きな健康被害を経験した選手も大勢いる。東ドイツでは女性を男性化させたり成長を抑制する薬などが公然と利用されていたそうだ。

現在のロシアではこうした過去の慣習に加えて自由主義的な競争がドーピング被害を生んでいるようだ。プーチン大統領は成果を出した選手とコーチに高い褒章を出して報いるという政策を取っているという。これが過激な競争意識に向かうのだろう。

こうした強い競争の果てにコーチたちは「まだ判断能力がない子供達に薬物を摂取させる」という方法を思いつく。自分は栄誉と経済的成功が得られる。犠牲になるのは子供達だが「彼らも栄光を手にするのだから問題ないだろう」と考えるのだろう。他人の痛みへの評価は低い。これがロシアの搾取構造である。

ここまで見ると「ああかわいそうに」と思う。ところが実際にはこの類のことは日本でも行われている。特筆すべきなのは日本人がこうした行為を「他人を犠牲した搾取行為だ」とは思わないところである。日本人はこれを自己犠牲として美談に仕立ててまた消費する。

日本とロシアには共通点もあるがもちろん違いもある。ロシアでは健康が犠牲になるのだが日本人は選手のメンタルヘルスを犠牲にする。

日本での犠牲者の筆頭と言えば羽生結弦選手だろう。右足に負担がかかるスポーツなのだが「命を縮めるような四回転アクセル」という新境地に達しようとしていたという話が美談として語られている。

現在27歳だそうだが足にかなりの痛みを抱えているようだ。だが羽生結弦選手が犠牲にしているのは実は足だけではない。

日本人が好きな言葉に自己犠牲を伴った研鑽がある。協力できなくなった日本人は自分たちで成果を出すことができない。そんな日本人に唯一残っているのはたまたま成功した日本人を祭り上げて「我が事のように喜ぶ」ことだけだ。こうして痛みを他人に押し付け自分たちは成功の味だけを搾取し続けている。

それが現在のオリンピックである。

だが、その裏には搾取感情がマーケティングに利用できると考える人たちがいる。彼らもまたこの構造に乗ることで消費者の喜びを利用し選手を搾取する。

さらにその背後にはスポーツマーケターと呼ばれる人たちがいる。特定の選手との個人的なつながりを背景に広告代理店や企業との橋渡しをするという人たちだ。先日テレビ朝日社長の60万円詐取疑惑について扱った。テレビ朝日が今だに総括報道ができないのは北京オリンピックで経営的にオリンピックに依存し続けているからであろう。根幹にあるのはやんちゃなノリと個人的な上下関係という体育会系文化だが、その背景にも経済的依存をしている大勢の社員たちがいる。

つまり羽生結弦選手の肩には「たくさんのお友達」が乗っかっている。ではそのお友達たちは羽生結弦選手の個人の成長を大切に扱ってくれただろうか。

羽生結弦選手の精神状態はかなり危うい。報われない努力があるんだなと仲の良いスポーツコメンテータに不安を漏らしたというのがその一端だが今回最も深刻だと思ったのは「9歳の自分が飛べという」という言葉だ。おそらく20歳の自分は「もうこんなことはやめるべきだ」と思っているのではないかと思う。

だが彼の中の20歳の自分はあまり育っていない。そこで9歳の自分が唯一の拠り所になってしまう。おそらくは自分が何のために挑戦するのかを整理できないままでここまで来てしまったと解釈するのが妥当なのだろうと思う。つまり9歳から変わっていない内面のままで27歳まで来てしまったということである。

だが狡猾で貪欲なスポーツマーケティングもこれを美談として消費した。

こうした整理をしない人が陥る中年の危機はかなり過酷なものになるだろう。スポーツ選手の場合現役引退後の年齢はかなり危険なものになる。多角的・多面的な経験をしていないので対処するために使えるツールの数が少ないからである。

この二つの犠牲者たちから、オリンピックというのが一人のアスリートにとって児童虐待になっていることがわかる。国威発揚という集団への依拠はそれだけ強烈な喜びと高揚の体験になる。そしてそれを搾取している側の人たちはおそらくそれに気がついていない。

一方で今回の北京オリンピックには救いもあった。いわゆる「横乗り系・横ノリ系」と呼ばれる競技だ。どれもストリートスポーツ出身の競技で競技歴が浅い。このため既存のスポーツマーケティングにあまり毒されていない。彼らにとって重要なのは国家の威信ではなく「仲間同士のリスペクト」である。横乗り系には「手堅くまとめる人ではなく挑戦した人たち」をリスペクトされるという文化があるそうだ。彼らは個人の成長がコミュニティの成長につながるということを知っていることになる。そしてそのコミュニティはありもしない「国家」というような抽象的なものではなく具体的に触れる何かだ。

選手同士がメダルの色や国の違いを超えて仲間同士で喜び合っているのを見ると正直ほっとさせられる。目に見える共同体は個人の成長と集団の成長を健康なまま両立できるのである。

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