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おそらくは誰にでも起こる可能性がある – 埼玉県ふじみ野市の医師殺し

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朝テレビをつけたら「男が猟銃を持って医療関係者を人質に立てこもっている」というニュースをやっていた。「猟銃」ということだったが意外と驚きはなかった。同時にまたお医者さんかと思った。大阪の精神科病院の事例を思い出したのである。案の定警察からは「拡大自殺説」が出てきた。本人もそう言う供述をしているそうだ。

また拡大自殺騒ぎか……最初はそう思った。

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だが、色々読んでいるうちに、今回の件はちょっと違って見えた。

自暴自棄もあり医師への恨みもありと言う混乱ぶりが見えたからだ。そしてそのうちに「誰にでも起こることなんだろうな」とも感じた。なくなった母親は92歳で息子は66歳だ。26歳の時の子供ということになる。いわゆる結婚適齢期である。高齢化で親が長生きするようになるとこれくらいの歳にこういう年齢にさしかかる。

新聞によると医師は入院を勧め息子はクレームの電話を医師会に入れていたそうだ。その後の供述も混乱気味であり「母親との別れが受け入れられていない」ことはわかる。誰でも通る避妊から怒りというプロセスをたどっている。猟銃という特殊さがそのありふれた感覚を打ち消してしまうのだが「離別を受け入れられないこと」自体を責めることは誰にもできないだろうなあと思う。

新聞やテレビはもちろん容疑者を責める。なくなったお医者さんは「地域の医療を支える立派な人」であり容疑者は「クレームを入れる困った人」扱いである。

日本は皆保険制度が充実している。誰でも同じような治療を受けることができる良い制度なのだが、元々は銃後の備えであり誰でも同じような扱いを受ける悪い制度でもある。特にお金がない人は最低限の扱いしか受けられないだろう。医療サービスのカスタマイズはできない。

なくなった医師の鈴木純一さんは44歳だったそうだ。2つの拠点を経営し300人の面倒を見ている。埼玉県ふじみ野市(11万人)、富士見市(10万8千人)、三芳町(3万8千人)の在宅医療対象者の8割にあたる300名の面倒を見ていたということなので「きめ細かい対応ができない」としても鈴木さんのせいではない。朝日新聞はもともと勤務医だった鈴木さんが地域医療の「ニーズの高まり」を感じて在宅医療に取り組むようになったと書いている。鈴木さんがなくなったことで地域医療が深刻な影響が懸念されているそうだ。一人の肩に大きな重圧がのしかかる。

鈴木医師はNHKの取材も受けている。地域で献身的に医療に取り組む熱心なお医者さんという印象である。危険を顧みずコロナ対応に勤しんでいた。こういう人がいなければ地域医療は崩壊してしまうのだろうなという気がする。

ただこれを読んで問題点も感じた。患者との距離が近すぎるのである。地域医療はかなりきつい仕事であり献身的でないと成り立たない。献身的な人はどうしても患者に近くなる。今回はお母さんが亡くなったあとで弔問に出かけたりしている。

不幸を抱えている人というのは自分に冷たい人よりも自分に関係がある他人に憎悪を募らせることがある。理不尽と言われればそれまでなのだが大阪の精神クリニックの場合もそうだった。つまり、ある程度距離を離れて接する必要がある。加えて、肉親との離別は否認・怒り・受け入れと推移することはよく知られている。誰にでも起こることなのだが当事者にはいつも初めての感情である。

医者は患者と距離を取る必要がある。また患者家族は「実はありふれているがその人にとっては初めての体験」をする。だからコーディネータが間に入り「適切な距離」を保つほうがよいように思える。在宅で看取りたいと考えても社会主義的な制度のもとではそれはなかなか受け入れられないということも周知されなければならない。

ただ「ただでさえ人が足りないのにコーディネータなど入れている余裕がない」と感じる人も多いだろう。銃後の備えとして最低限の環境しか整っていないので「気持ちの問題」を考慮すべきだと考える人が誰も出てこない。我々はこんなものだろうと思っているが実はかなり時代遅れの制度なのだ。

そう考えるとこの事件の真の異常さがわかる。まず制度ありきで誰もその問題点を社会がどう解決すべきなのかということを考えないのだ。地域の医師たちは鈴木さんがいなくなったら地域の介護医療が崩壊すると言っている。社会全体でそれを受け入れた体制をつくろうと考える人は誰もいない。渡辺容疑者に至っては「猟銃を持った異常な存在だ」と扱われるのみである。我々が同じような状態に陥ったとき「何をして欲しいのか」という視点で考察する人はいない。

つまり不安を外部化して「あれは特殊な出来事だった」と考えて見なかったことにしようとしている。制度が大きすぎて誰も何も変えられないという認識があるからだろう。

だがそれはおそらくその都度少しずつ考えてておかないといけないことなのではないだろうか。誰の身にも「世界の終わり」としていつか降りかかってくる問題だからだ。

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