1933年の死なう団
1933年には「死なう団」という団体が社会に大きなショックを与えた。彼らは祖国、主義、宗教、盟主、同士の為に「死のう」と主張して、題目に陶酔した。警察はこれを問題視し「秘密結社を組織した」ということにして殲滅しようとした。
しかし、てひどい拷問を加えて取り調べをしたにも関わらず、秘密結社を組織しようとしているという証拠は見つからなかった。そこで警察は新聞各社に「陰謀が発覚した」と伝え、新聞はそれをそのまま伝えた。結果的に彼らはテロリスト集団に仕立て上げられてしまったのだが、実際には自発的な運動だったようだ。
問題だったのは、ある宗教的な団体を警察が理解できなかったということである。そこで警察は犯罪の雛形に死なう団を押し込めようとした。そこれ彼らが使ったのが治安維持法である。
この事件の起きた1933年に日本は国連を脱退している。ドイツではヒトラーが首相に就任。いよいよ第二次世界大戦に向けて動き始めたという年である。それに先立つ1930年には昭和恐慌が起きており街には大学や専門学校を卒業した失業者としてあふれていた。第二次若槻内閣は半年ちょっとしか保たず、その後に続いた犬飼首相は暗殺された。その後、妥協の産物として挙国一致内閣が作られた。しかし、その斉藤内閣も早々に倒れてしまい、軍人が政治権力を握る時代へと傾斜して行く。それでも不透明感がなくなることはなく、軍人が政治を掌握すべきであると主張して青年将校たちが2.26事件を起こす。これが1936年である。死なう団は警察に監視され続けるのだが、1934年に報告書を書いた特高主任が割腹自殺をする。警察は示談を急ぐが結局果たされなかった。教団はこの後孤立を深め、1937年2月に都内各所でデモンストレーションのような自殺未遂事件を起こした。教団は教祖の死で1938年に完全に解体してしまう。
死なう団に対する世間の戸惑い
新聞はこの間右往左往している。最初は警察の発表を信じてテロ集団だと断定。その後特高主任が自殺すると警察を攻撃する。そして自殺未遂事件が起こると今度は戸惑いがちにそれを伝えた。
自殺を通じて社会にメッセージを伝えようとすることも、新聞各社が戸惑いつつも場当たり的な報道をすることも、現代に似ている。そして経済不安から社会情勢が安定せず、内閣が長続きせずより確実な方向に傾倒して行くのも2008年の現代とそっくりだ。国民が困窮し労働者や小作農を代表とする左派政党が台頭し、国民は不安から治安維持法の強化を求めた。その後日本はある確実なソリューションに傾斜してゆく。それが第二次世界大戦である。死なう団は先行きの見えない不透明な時代を背後にした事件だ。もしこれが、自分の利益の為に相手を殺してしまおうという集団であったなら、もう少し賢く処理ができただろう。しかし相手は勝手に死んでしまおうとしている。これは防ぎようがないし罰しようもない。我々の社会は、人は生きて行くために力を尽くすという前提で成り立っている。生きる意欲を失い消えてしまう人たちは想定外なので、社会に大きな戸惑いを生む。そして社会は大きな戸惑いを目にするとその原因を探そうとは思わずに、なかったことにしてしまおうとするのである。
死なう団の目指したもの
死なう団のモットーは「不惜身命」だった。命を惜しまずに、何か個人の命より大きなものに身を捧げるというような意味だが、いつのまにか死ぬ事が目的化した。教祖そのものは自殺には反対だったようだが周囲の圧力は収まらない。
死が魅力的なのは、そこに「私」と「あなた」の境目がないからだろう。それは生きているものすべてに対して圧倒的な現実であり、誰の前にも平等だ。そして死は生のように不安定ではない完成した形である。社会は不完全な生をつなぐために作られた不安定なシステムなのだから、これを完全に打ち崩して無に帰してしまう死への衝動は不安定な状態に対する解になってしまうのである。
旧憲法下の国家はこれを国を強くするための力として利用した。個人の命を投げ出した兵士を英雄視し、兵隊は「不惜身命」を誓った。一種のカルト宗教を作ったといってもよい。普通の人間はいい加減なので、これを便利に解釈して生きてゆくのだが、純粋な人たちはこの考え方を受け入れる。集団に帰依すると実際に高揚感が起こるのかもしれない。
しかしこれが一歩先に進むと、対象物そのものである死の崇拝に変わる。この世の終末がくれば、生という苦役が綺麗さっぱり終わりになる。オウム真理教やノストラダムスなど終末感が人を惹きつけることがあるのだ。
企業の競争や戦争といった高揚感のある時代には、この個人の死の指向(物理的に死んでしまうこともあるだろうし、個人の自由を我慢して集団に尽くすというのも含まれるだろう)は生産性向上の為に利用された。しかしどこに行けばよいのか分からない時代には、こうした集団に帰依したい気分は行き場を失い小暴発を繰り返すのである。
遅れて来た信者 三島由紀夫
「死なう団」について書かれた保坂正康の本はこの三島事件を受ける形で書かれている。
三島由紀夫は集団への陶酔と死への憧憬を持っていた作家である。だからなんらかの共通点を見出したのだろう。
確かに、三島が自衛隊で革命を叫んで割腹自殺したとき、三島は「大義のために死んだ」言われたかったのかもしれない。しかしその当時にはすでに国家は崇拝の対象ではなくなっていた。
だから周囲の自衛隊員は「昼食がとれない」事をヤジるなどあまり同情を寄せることはなかった。三島が死に陶酔していた間、周囲はお腹がすいたと日々の生を生きていたのである。しかし観客としてはどうだろうか。テレビ局や新聞社に囲まれ、自衛隊を舞台に、華々しい死(もしそんなものがあればの話だが)を演出することができたのである。そういった意味では三島の演出は成功だったとも考えられる。
「貴様と俺とは同期の桜同じ兵学校の庭に咲く。咲いた花なら散るのは覚悟。みごと散りましょう国のため」とういう一体感と死への陶酔は同じ郷愁を持った人々を惹きつける。だが、仕事として自衛官たちはこれを嘲笑した。これは三島にとっては悲劇的な最後だったが、これを見ていた自衛官たちにとっては単なる迷惑な行為か喜劇でしかなった。
三島由紀夫は生真面目な人だったようだ。生真面目な人には自衛隊の存在は許しがたい冒涜に思えたのかもしれない。理屈に合わない存在だからである。いろいろな人が語っているように老いて行く自分が許せないという気持があっただけかもしれない。人生が一つの作品だとすれば、ピリオドである死が惨めなものであれば、人生そのものが惨めになるのだと考えても不思議はない。
だが、それは自衛隊の人たちに理解されることはなかったのである。