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「外国人が日本を無茶苦茶にする」と怯える日本人と武蔵野市の住民投票条例

武蔵野市で住民投票条例が否決された。「外国人が日本を無茶苦茶にする」と怯えた日本人が多かったなという印象を受けた。成長から見放され脱落先進国としての地位が定着している焦りと諦めが在日外国人バッシングに転化されているのだろう。彼らが考える「偉大な日本」という虚像と実像が全く合致しない苛立ちが関東近県から武蔵野市に向かった。

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この運動が最初に目についたのは長島昭久衆議院議員のTwitterだった。

この地域は菅直人元総理が強い。民主党から鞍替えした長島議員は自民党への忠誠を見せつつ選挙区の反リベラルにアピールしなければならない。選挙区を武蔵野市などのある東京18区に移されたがが菅直人元総理を打ち破ることができず最後まで比例復活できるかどうかもわからなかった。こうなると地元の反リベラル感情に訴えて存在感を見せつけなければ先がない。そこで長嶋さんは法律の専門家としてnoteで反対の論陣を張った。noteの議論そのものは「さすが法律の専門家である」として一定の評価を受けているようだ。

だが、実際に長嶋さんが火をつけたのは「冷静な議論」ではなかった。おそらく住民としてまちづくりに参加する意識などないあるいは住民ですらない人たちである。

Twitterでは外国人に対して差別的な言論も見られたというが「デモ」という形で可視化された。武蔵野市は電車で渋谷まで一本で出られる閑静な住宅地域である。おそらくこのデモは普段平和な生活をしている武蔵野市民(特に吉祥寺駅周辺に住んでいる人たち)にかなりの圧迫感を与えたことだろう。条例反対に回った本多夏帆市議は「町が分断される」と危機感をあらわにしたそうだが気持ちはよくわかる。

かつては正社員として雇用されてれば「うちの会社」などと帰属意識も持つことができた。だが終身雇用制が崩壊した今の日本には「日本」という漠然とした帰属集団しか持てない人たちが大勢いる。

だが、実際には日本というコミュニティはない。生活は全く豊かにならない。日本人として得られるはずだった誇りも得られない。自分で役割を見つけることもできないため自尊心を持つことも許されない。

今回の住民投票法案は「住民をまちづくりに参加させたい」という意図で計画されたのだろう。つまり武蔵野市民の権利が拡大するはずだった。だが住民がまちづくりにや社会建設に参加できるという意識を持たない彼らは「他人が権利を持つことを阻止しなければならない」という意識しか持てなかった。だから彼らは外国人という用語にだけ過敏に反応したわけだ。

彼らは自らの権利獲得など当然見込めないと考えているから他人の権利に対して過敏に反応する。企業経済や政治を独占したい人たちにとってみれば自らの権利獲得を諦めついでに他人の権利獲得を妨害してくれる集団ほどありがたいものはない。

長島さんがどういう心情でこの件に反対しているかはわからないのだが、結果的には「誰にも新しい権利を獲得させない」という囲い込み運動を助長していることになる。だがこうした人たちが長島さんを支持してくれるかどうかはわからない。そもそも住民参加意識が希薄で他人の権利侵害にしか興味がないからである。

だが実際には日本での外国人の地位は上がっている。長島議員も所属する自民党政権は「技能実習生」という名前でまず実績を作り外国人労働者を定住させようとしている。この計画によると外国人労働者は配偶者などの家族を帯同させることができる。もはや日本は外国人労働力に依存しつつあり外国人なしには立ち行かなくなっている。おそらく長島さんはこの動きを止めることはできないだろう。地方の労働者不足は切迫している。岸田総理はこうした地方の声を「聞いてしまう」からである。

さらに、日本の国際的地位が落ちてゆき日本人が自信を失っているのは明らかである。2027年には一人当たりのGDPが韓国に抜かれ2028年には台湾に抜かれるという予測が出た。主にDX戦略の遅れによるものだそうだ。デジタル庁の混乱を見てわかるように現在の政権はIT戦略をうまく扱えない。

昔から外国人への風当たりは強かったのではないか?とも思えるのだが実は豊中市で同様の王霊安が可決されたとき外国人を住民に含めることについて取り立てて議論はなかったそうだ。日本がこの数年間でかなり自信を失い、その矛先を求めていることがわかる。

ただ豊中市でもこの条例は今まで一度も使われたことがないのだという。

おそらくこちらの方が問題なんだろうと感じた。今回の話で全く見えてこなかったのは松下市長が住民投票で何がしたかったのかという問題である。つまり「住民投票を通じて日本人住民の権利もまた増す」はずだという議論と具体的な実感がなかった。

おそらく松下新市長は「市政運営には市民が積極的に関わるべきである」と考えていたのだろう。だが住民が「これで市政に参加できる」と感じなければ支持は広がらないだろう。そもそも市政に参加すれば地域の暮らしが良くなるという実感をまだ誰もしていないのかもしれない。

「住民参加」を進めていてどうしても「住民投票が必要だった」という必然性が見えれば住民投票法案には一定の理解が集まるはずだった。外国人問題がターゲットになったことで今後住民投票条例案は提案が難しくなるだろう。おそらく松下新市長に求められるのは住民投票法案ではなく自治会などとの連携を通じて「住民がまちづくりに参加した結果暮らしが目に見えて良くなった」という実感作りなのではないかと思う。

地方自治体の職員は首長の顔をよく見て仕事をしている。住民尊重の姿勢を見せれば市役所の対応からして変わってくる。全国に同じような制度を浸透させなければならない中央の政治と違い「市長が変わって市政がよくなったなあ」という実感は地方自治体こそ簡単に作ることができるものだ。

市民の意識が変わればよそからやってきて他人の権利を妨害する人が土足で街に踏み込んできても妨害活動がやりにくくなるはずだ。ついでにそれは危機感を煽って議席を獲得しようという人を防止することにもなる。

やはり政治の基礎は地方自治にあるべきなのではないかと感じた。