今日の話題は「なぜ独裁はいけないのか」である。こう書くと中国を思い浮かべる人がいると思うのだが、専制国家の中国は現在独裁が実現される過程にありまだ独裁国家ではない。今回取り上げる事例はトルコである。独裁がいけない理由は簡単だ。独裁は多様な意見を排除するので取り得る選択肢の数が限られてしまうのである。その結果、国民生活が困窮する。つまり独裁は一人のリーダーの資質に依存するから危険なのである。
トルコの経済が苦境に陥っている。レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領は「金利据え置き」に固執しており通貨リラの価値が下落している。このため中央銀行総裁の首を何度も挿げ替えてきた。挿げ替えるたびに経済素人の中央銀行総裁が経済をさらに混乱させるという悪循環が起きている。人々は燃料費の高騰に苦しみ安いパン屋に行列を作っているという。さらにアメリカ合衆国はドルの供給を減らしている。高い金利を狙って新興国に流れていた資金は回収局面に入るのでトルコの苦境はますます続くだろう。
だがトルコ政府にはお金がない。そのためエルドアン大統領は貧困対策として最低賃金を50%引き上げることにしたそうだ。つまり雇用者に高い賃金で労働者を支えるように命令を出したことになる。仕入れ値がが高騰し人件費まで上がったら経営者は何をするだろうか?と考えると答えは自然と見えてくる。
大失業時代が来るだろう。
エルドアン大統領がなぜ利上げに消極的なのかという理由はよく見えてこない。友達の企業を助けるためなのではないかという人もいるし政府の資金調達が難しくなるからだと感じる人もいるだろう。理由はよくわからないがエルドアン経済学(エルドアノミックス)に固執していることだけは確かという状態にある。エルドアノミックスによれば高い金利はインフレを招く。あるいは経済学ですらなく単なる独裁者の直感なのかもしれない。
なぜ直感に頼る政治になったのかを考える前に経緯を見てゆきたい。
トルコはもともと議院内閣制の国だった。政治の役割は限定的で軍が世俗主義を守って来たという歴史がある。一方で国民福祉をイスラム教指導者に頼ってもいた。
当初人気が高かったエルドアン首相だが政治が行き詰まると敵を作り権力を集約するという独裁国家によくありがちな戦略をとるようになった。2016年に軍とイスラム教ギュレン派が結びついたクーデータ騒ぎがあった。エルドアン大統領はクーデターを鎮圧しギュレン派と軍を大量粛清した。2017年には憲法が改正され議院内閣制が廃止され大統領が直接政治をを行う集権大統領制に移行した。
このクーデターの背景はよくわからない。仮にエルドアン大統領の自作自演だったとするとヒトラーのやり方にそっくりである。ヒトラーももともと首相だったが大統領の権力と首相の権力を併せ持った総統という地位を新たに作り出した。
このように考えるとトルコは日本と似たところがある。日本は民主主義国家として欧米に迎え入れられた。本来的に民主主義に対する国民と政治家の理解が高いとは言えないが「欧米と価値観が同じ洋服を着ている」と見せたいために表面的には自由主義・民主主義国家として振る舞いたがる。
日本は欧米と付かず離れずという距離感だが、イスラム教国のトルコはヨーロッパから潜在的に差別されている。このため反動的に反民主主義の方向に傾いたわけである。ヨーロッパの一部だとみなしてもらえないロシアがヨーロッパを憎む気持ちと共通するところがある。
このように民主主義のプロセスで選ばれて権力を独占してゆくというのが独裁である。民主主義の上に共産党が君臨する中華人民共和国のような専制主義国家とは異なっているのだが、最近ではロシア・中国・イラン・トルコなどは「専制主義国家」として一括りで語られることが増えた。主にアメリカ合衆国がそう名指ししているからである。アメリカは欧米型の民主主義以外は許容しないいわば民主主義原理主義国になっている。
トルコの経済について解説したこの記事はそもそもこうした欧米型の現状認識はトルコには当てはめにくいと書いている。またこの記事には「集権大統領」という言葉が出て来る。大統領が森羅万象の問題について決済する必要がある上に大統領側近たちが都合の悪い情報を遮断するようになると構造的に大統領には情報が集まりにくくなり執行能力が落ちてしまうのだという。
トルコのような例は珍しくない。最初は民衆に支持された強い指導者が成果をあげるのだが、その過程で周りにはイエスマンしか集まらなくなる。ノーを言う人たちは排除されてしまう。そのうちに環境が変化すると独裁者は独自の理論を振りかざし政敵を攻撃する。だがイエスマン以外を排除してしまっているので取り得るオプションの数が限られてしまう。こうして権力は民衆を巻き込んで孤立するのだ。
安倍政権は安倍総理が人事を一手に掌握した政権だったが実質的にそれを仕切っているのは菅官房長官だった。統計が歪められ、人事による官僚支配が横行した。結果的に取れるオプションの数は限られ無駄なコストがかかるようになった。菅官房長官(のちの総理大臣)のもとには情報が上がらなくなり執行能力は減退した。
だが、日本にはこうした独裁国家とはまた違う特徴がある。村の連合体なので強すぎるリーダーは嫌われる傾向にある。
自民党内では擬似民主主義的なプロセスが働き「実質的な政権交代」が起きた。安倍総理と距離があった岸田総理には菅政権のような視野狭窄は起こらず従ってバックアッププランの執行が可能になる。野党は抵抗しない自民党を攻めあぐねている。
もちろん日本の中にも独裁志向の人たちがいて憲法改正による「ルールの形骸化」を目指している。民主党が政権を取った時のトラウマから選挙制度を憎悪している人たちがいるのである。立憲民主党が慎重な憲法議論を求めているそうだが、自民・国民民主・維新がタッグを組み立憲民主党の代表者に集中砲火を浴びせたそうである。つまり、護憲勢力を少数派と決めつけていじめたのである。
ではこの改憲勢力が民衆の支持を得て独裁に走るのかというとそうでもない。
自由民主党は10増10減に反対している。つまり地方が有利な形で中央集権的な体制を維持しようとしている。一方で維新は都市部が有利になるように地方分権を進めたい。このため維新の憲法改正案には統治機構改革が入っているそうだ。
つまり、立場と成立過程が異なる自民党と維新は本質的に目指す方向が違っている。たとえ憲法を変えられたとしても「憲法改正のための憲法改正」になるのではないかと思う。現在の改憲の仕組みでは「同じ憲法条文について自民党案と維新の案を比べる」提案はできない。国会が一致して憲法改正条文を発議する必要があるからだ。
こうなるとおそらく妥協的な条文しか出てこないだろう。村同士がまとまれないという気質が形式的には日本の民主主義を守っている。日本は民主主義国家ではないが一人の独裁者に権力を委ねる独裁も嫌うという独特の政治風土がある。誰にも権力を渡さず何も決めないのが日本式だ。
安倍政権の8年間で「あの程度の独裁」であっても官僚機構と国家の信頼に重大な傷をつけられるということはわかった。憲法改正はしなかったが憲法解釈は歪められ、不正の隠蔽が日常茶飯事に行われ、GDPに関わる統計まで書き換えられることになった。憲法は形式しか規定しないので独裁を防ぐことはできない。
一方、専制主義国家の中国はこれまで共産党内部で独裁者を出さない工夫をしてきた。おそらく中国が独裁国家を目指していたら朝鮮民主主義人民共和国のように毛沢東王朝ができていただろう。北朝鮮も独裁の弊害が色濃く出ている。同じ民族にも関わらず大韓民国との差は歴然である。
習近平国家主席は権力の集中を目指し憲法を改正し権力固めを推し進めている。つまり中国は国家でなく共産党を独裁体制にしてしまうとおそらく「終了」するのだろう。
こうなったら中国との交流を全てストップして中国を封じ込めて中は覗き込まないというのが最善の案ということになるだろう。つまり、国際社会は一致して巨大な北朝鮮を作るべきだということになる。
中国の独裁化も、多くの独裁国家のようにまた終わりの始まりなのではないだろうか。