オリジナルの講義を全く聞かずに論評を書くというのはおそらくやるべきことではないと思うのだが、先日のエントリーで岡田斗司夫さんの3万円の仕事を10という論について考えた。きっかけになったのYouTube動画は同志社大学でのレクチャーの切り抜きだと思う。学生相手に「1つの仕事に全賭すると危険だから分散化しなさい」というようなことを言っているようだ。
これだけを見ると「さすが岡田さんだ、私も明日からそうしよう!」などと思うわけだが、こういう時こそ「いや待てよ」と思わなければならない。そこでQuoraで聞いてみた。意外なことがわかった。
二つの意外さがあった。
Quoraの回答で今一番評価されているのは「そんなものは無理だ」という意見だ。1つの仕事には「かなりの時間がかかるのが通常」だから「流すように仕事はするべきではない」と書いている。日本は職人の国なのでこれがスタンダードな対応だろう。つまり、当初感じた違和感は「もともと日本人が持っている職人気質」とマルチプロジェクトな働き方がバッティングするというものだったのだということがわかった。
だがこれは想定内の意外さである。
それ以外の回答にはクライアントを多様化しておくことの重要性が書かれていた。つまり、仕事とは職人的に献身するものだという昔ながらの意見がある一方で「一つの職場に賭けるのは危険である」という意識そのものは意外なほど普及しているということになる。多くの人が先行きに不透明さを感じているのだろう。おそらくこれは労働者だけでなく企業も同様だと思う。
例えば、最後の回答は具体的なポートフォリオの組み方まで書いてある。つまり、やっている人はすでにやっていることなのである。
岡田さんのマルチプロジェクトの世界にはまだ形にならないようなプロジェクトが複数ありそのうちのいくつかがマネタイズ(お金儲け)できるようになる。環境が不透明だからこその多産多死の考え方である。
これまで作家になるためには小説を書いて大手出版社に応募し賞を取るしかなかった。作家希望者は研鑽を重ね「これは」というものだけが世に出回ることになる。だがそのうち出版社は何が売れる本なのかが見つけられなくなった。出版社が良いものを押し付けられる時代は終わってしまったのである。
最近ではYouTubeのようなマネタイズのプラットフォームが複数できている。YouTubeは「評価が悪ければ課題を見つけて自分で作り直してゆけば」いいという気楽さがある。職人風に完璧になるまでリリースしないなどと考えていてはいつまでたっても登山が始められない。むしろ多少できは悪くても始めた人に報われる可能性が増えるという世界である。
日本でGAFAが生まれなかった理由は簡単である。GAFAは「価値あるものはユーザーが決める」という世界を作った。日本の企業はそもそもそのような考え方はしない。ユーザーレベルではGAFAの支援者が増え供給者は出遅れた。
新しいマルチプロジェクトの世界ではコラボも盛んだ。自分ができないことは自分でやらなくてもいい。だが「相手からトラフィックを分けてもらおう」とか「定期コンテンツにしよう」などとは思わないほうがいいかもしれない。その場限りの「コラボ」でうまく言ったらまた別のこともやって見るくらいにとどめておいたほうが良さそうである。つまり、極めて弱い紐帯によってつながっている。
弱い紐帯でつながった未完成のものがたくさんありそれを精緻化してゆくというのがマルチプロジェクト世界だろう。ところが、日本はシングルプロジェクトの職業規範が残ってしまったためにフリーランス労働者が奴隷化してしまっている。
現在のフリーランスは下請け労働が主である。例えば、フリーのグラフィックデザイナーがWebプロダクションの下請けとしてグラフィックの仕事を請け負うと曖昧な仕様に振り回され終わりの見えない修正地獄に陥る。これは日本人が完璧さを求めて生産性を度外視してしまうからだ。これを世間では職人気質と言っている。さらに下請けは発注者と極めて強い関係で結ばれている。
さらに日本のフリーランスはスキルの奴隷でもある。職人は長い時間をかけて一つの技能を研鑽するものという思い込みがあるので「自分の境遇が満たされないのはスキルが足りないからだ」と思い込んでしまう。もちろんそれが報われることもあるが、保証はない。一つのスキルに全部を賭けてしまうのは極めて危険である。できないことは人にやってもらったほうがいい。まず下手な下書きを提示すれば「俺ならもっといいものが作れる」と言ってくる人が現れるだろう。
おそらくここにギャップがある。もともと日本は職人の国だった。職人は完璧に仕事をこなせる人を重用するが、その職人気質を満足させるためにはある程度の高いギャランティーが必要となる。だがこの職人気質は「やる気搾取」と呼ばれて搾取の対象になった。おそらくかつての成功体験を知っている人にアドバイスを求めることは新しいフリーランサーにとってはとても危険なトラップになる。
さらにいえばかつての職人を使っていた古いタイプの雇用主は大変危険である。生活の保障はしないのに品質は追求する。だが何が高品質なのかはよくわかっていない。だから「なんか違う」「ちょっと期待していた通りではない」ということになるわけである。
SNSには二つの文化がある。一つの文化は少しずつ足りないところを足してゆこうという協力の文化だ。協力とは言っても強い協力ではなくその場でできてそのまま消えてゆく程度の弱い協力である。グラノヴェッターの弱い紐帯に似た考え方だ。
だが、圧倒的に多いのが村社会型ネット監視文化だ。自分が利得が得られないのは仕方がないと考えていて「であれば相手が利得を得るのも妨害しなければならない」と考える。こうした人たちを見分けるのは簡単だ。正解にこだわりまず否定から入る。さらに課題でなく人に注目する人が多い。そしてコミュニケーションにあまり手間をかけたがらないので応答が雑である割に自説にはこだわる。だからこうしたコミュニケーションは大抵口論になる。
ここから言えることは次のようなことだ。岡田さんの元の話を全く聞いていないので「元の論はそんなことは言っていない」のかもしれないが、自分の経験や今回見知った話を元にするとこういう結論になる。
- 心地のいい下請けになるよりも自ら場を作る努力をしたほうがよさそうだ。
- 弱い関係を複数作る。関係が弱いのでチームを作って会社のような利益共同体は作れないだろうがネットワークが広ければ広いほど「タネ」が拾いやすくなる。
- ネットワークには避けるべきトラップもある。
- 昔ながらの職人気質の人や職人を使っていた人は(よほどお金を持っていない限りは)避けたほうがいい。
- 自分の正解にこだわり相手の欠点を見つけたがるコミュニケーションが雑な人は避けたほうがいい。課題ではなく人に注目する人も協力者としては使えない。
この考察がどの程度妥当なのかはわからないのだが「立派な形になるまでは出さないほうがいいのではないか」とか「あれこれ様々なジャンルに手を出さないほうがいいのではないか」とは思わないほうがいいのかもしれない。何が面白いのかを決めるのは結局のところエンドユーザーだからだ。