ザ・ハウス・オブ・グッチという映画の番宣がYouTubeから流れてくる。面白そうなのでWikipediaで調べて見た。
グッチはグッチオ・グッチが第一次世界大戦後の1921年にフィレンツェで創業した。グッチオにはロンドン在住経験がありイギリスの雰囲気を取り入れたスタイルで話題になったそうだ。第二次世界大戦で革が使えなくなるとキャンバスにコーティングを施した素材を使うようになりそれも評判になった。グッチオ・グッチは1953年に亡くなった。
グッチの株は三男アルドとその3人の子供たちに合計50%が渡り、五男のマウリッツィオに残りの50%が渡る。アルドはニューヨークに支店を出したが余りうまくゆかなかったのだろう。2代目社長に就任したのはアルドの子供のパオロだった。経営の才能と意欲はグッチオの子孫には引き継がれなかった。
この三男と五男が亡くなり三代目の時代になる頃にグッチの経営は泥沼化してゆく。ちょうどブランドが一族経営で立ち行かなくなり、コングロマリットの進出が始まっていた時代である。創業時の意欲をなくした創業家一族とブランドをお金儲けの記号のように考える資本家たちの交代劇が起きつつあった時代である。
Newsweekの提供するWorld Voiceというサイトにグッチ一族の暗殺事件をどこよりも詳しく解説してみたという記事がWikipediaに載っていない細かな経緯が書かれている。まず、孫のパオロは父親のアルドから追放された。それに腹を立てたパオロはマウリツィオに近づいてアルドを追い出した。つまり息子がいとこと組んで父親を追い出したのである。
このことからマウリツィオは経営の本筋からは外れていたことがわかる。
ところがさらにここから話がさらに複雑化する。マウリツィオに「金目的で近づいた」とされるのがパトリツィアである。あまり経営に意欲はないが外に出て自分の商売を始めるつもりもない夫をそそのかしてグッチの経営を独占させた。パオロらが持っていた株を貰って経営権を独占する。
ところが経営権の独占に成功するとパトリツィアは女帝として君臨し始めた。つまり嫁に会社を乗っ取られてしまったのである。
マウリツィオはパトリツィアがお金儲けで彼に近づいたということに気がつくのだが時はすでに遅かった。外に女性を作り離婚調停を始めるとパトリツィアは嫉妬に狂う。パトリツィア脳腫瘍が見つかり手術には成功したがこの頃から夫に懲罰を与えるために殺すことを計画し1993年に実行に移してしまう。
捜査は難航したようだが犯人側からの密告で一味が捕まった。「思っていたよりも報酬が少ない」と実行者たちが不満を持ったのが原因だったそうだ。
裁判ではパトリツィアはコバルト療法を受けていたから善悪が判断できないという方針で弁護が行われたが判決は覆られなかった。最終的に26年の判決を受けたそうだ。Wikipediaには29年の判決と書かれているがブログは29年求刑で26年の判決と書かれている。最終的に17年後に保釈された。
ここから先も恐るべきことが書かれている。マウリツィオは刑務所でも好き放題に振る舞い刑務所への借金が1700万ユーロ(約22億円相当)もあったそうだ。おそらく実行犯にお金をもっと渡して入れば犯罪そのものが露見しなかった可能性がある上に刑務所さえお金でなんとかなったということになる。
だがおそらくパトリツィアはケチだったのだろう。お金目当てでグッチの御曹司に近づき、経営をめちゃくちゃにし、殺人実行犯に十分な手当を渡さず、刑務所への借金も踏み倒そうとした。その結果、刑務所に22億円もの借財が残ったのだ。
マウリツィオの娘たちは遺産を受け継ぐ代わりに父親を殺した母親の年金を支払うことを要求されたばかりでなく母親が刑務所で使った費用を支払うように要求された。娘たちはそれを拒否して裁判を起こすが国は受け入れなかった。最高裁判所はそれらの支払いを娘たちに求めたという。イタリアという国の意外な側面が見える。
Wikipediaによると三男アルドの子孫たちはそれぞれ自前のブランドを展開しているそうだがGucci株を売却するときにGucciの名前を使ってはいけないという契約を結んでおり思うように世界進出ができないそうだ。
面白いことに初期のGucciのストーリーにはデザイナーが出てこないようだ。もともと職人気質の滲んだ製品で構成されたブランドだったからだろう。日本でもデザインというよりむしろあのロゴが記号的に認知されている。一時渋谷の若者の間にモノグラムがは流行ったことからもGucciの価値はデザインではなく記号にあったことがわかる。
だが、おそらく現在のGucciを知っている人は「グッチもデザインの会社だ」と感じているのではないだろうか。皮肉なことにGucciが今のような形態になったのはケリンググループに買われたからである。
ケリング・グループはもともと木材取引などの小売業をなりわいいしていた会社だそうだがパリのデパートであるプランタンを買収してファッションビジネスに参入したそうである。今では小売から脱却しラグジュアリブランドの会社になっている。Gucciはその中核ブランドとして位置付けられている。フランソワ・アンリ・ピノーは女性の人権や環境など企業の社会的責任に関する関心が高いとされているそうだ。
ケリング・グループに対抗するのがLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)だそうだ。LVMHを作ったベルナール・アルノーはもともと不動産業を営んでいた。フランスを離れアメリカに移ったときに「フランスのことは知らないがディオールは知っている」と言われてファッションブランドを買いあさるようになったとされている。こちらは不動産屋という出身からわかるように強引な手法が社会の顰蹙を買うことがある。
ブランドは長い歴史の中で記号化して「不動産と同じように売り買いされるお金持ちのコマ」のような状態になった。だが、徐々にクリエイティブディレクタと呼ばれる人が製品デザインから広報までを一括管理するといる手法が取り入れられて一般化した。
1990年のトム・フォードなどがクリエイティブディレクターの草分けとされているそうだ。トム・フォードはその後イブ・サンローランに移り創業デザイナーであるイブサンローランに疎まれつつもクリエイティブディレクタとして活躍した。
つまり、創業者の手を離れて資本家の道具になったからこそブランド=デザイナーということになりブランド名が永続するようになったのだ。