普通の子が普通の子を殺す、弥富市の普通の子殺人

愛知県の名古屋近郊に弥富市という普通の町がある。地図で見たら揖斐川・長良川・木曽川が流れ出すところにある。金魚の産地として知られているそうだ。ここで中学生同士の殺人が起きた。加害者の少年は刺身包丁を準備して学校にゆき教室の外から礼儀正しく被害者の少年を呼び出し廊下でまっすぐに肝臓を一突きしたという。

生徒のほとんどは教室に入っていたという頃だから廊下には誰もいなかったのだろう。報道を見ていて日本全国でも積極的に「言語化教育」をやらないと大変なことになるのではないかと思った。アメリカなどではアサーティブネスと呼ばれている「嫌なものは嫌だ」と主張するという教育である。






当初このニュースが出た時、いじめの事実を把握していないという教育委員会に対して違和感を持っていただがその印象は徐々に覆った。しばらくして少年の供述が出てきたからである。「これは周りが気がつかなくても仕方がない」と感じた。

加害少年は当初「いじめられていた」という供述をしていた。だが具体的な話が出てこない。みんなで話した時に被害少年が割って入ってくるのが嫌とか一方的に生徒会演説で応援演説を頼まれたのが嫌だったとか給食の時に箸を渡してくれないことがあったというような話は出てくるが、普通の人が考えるいじめの話は出てこない。学校はアンケートを通じてこのことを知っていたらしく加害少年と被害少年のクラスを分けることにしたそうだ。この学校にはクラスは2つしかないという。

次第に報道は「この些細なことをいじめと感じていた」という方向に流れつつある。加害少年の考えすぎだというわけである。

総合すると「なんか嫌」だったから刺身包丁で刺したということになってしまうが、その事実が受け入れられないのだろう。

おそらく、加害少年にも長年にわたる心の動きはあったはずである。供述から見えてくるのは一方的な人間関係だ。様々なデマが飛び交っている中で信頼できる情報は「リーダーシップがあったが命令口調が多くこれはトラブルになるだろうなと思った」という情報と「お調子者のところがあって声が大きい」という情報だけだ。

加害少年は固定的な人間関係の中で一方的な関係性に長年の恨みを募らせてきたのだろう。それが何らかのきっかけで刺身包丁となって被害少年に突きつけられたことになる。

ここでまとめると原因は三つあったことになる。こんな環境はいくらでもある。

  • 人間関係が固定的で逃げ場がない。
  • 細かな嫌なことが積み重なっていたが当事者も周囲も「大したことはない」と考えていた。
  • 違和感が徐々に育って言ったが言語化がうまくできなかった。

我々はこれを見て「そんなことくらいで人を殺すのか?」と考える。だからこそ「何か他にあったのではないか」という憶測が生まれる。ネットでは色々なデマが飛び交っている。

だが、もしかすると加害少年も「こんな些細なことを言っても誰にも理解されないのではないか」と感じていたのかもしれない。結果的に起きたことは殺人なので「こんなこと」ではなかったわけだが周りの人が聞く耳を持っていたかどうかよりそもそも加害少年が自分の声を聞いていたかが気になる。

加害少年がこれを「異常」だと認識できなかったとしたら、周りの大人がそれを拾い上げることもできない。従って何の対応も行われず、従って問題解決もできない。教育委員会が知らなかったとしてもそれは当然のことである。

では、これが特殊なことなのか?ということになる。考えてみれば「何となく生じた違和感」が実は深い恨みにつながるということはよくあることだ。特に最近はSNSが発達してきていて日常から様々な接触が生まれやすくなっている。特に問題があるのは狭い人間関係の中で構築されるLINEのような閉鎖的な人間関係である。

ヤフーニュースのコメント欄を見ると「いじめ被害を受けていた」側から加害少年への共感のコメントが多く寄せられている。やっている側は些細なことだと思っているのだろうがやられた側は深刻に受け止めているという内容の書き込みが多い。

日本社会ではちょっとしたことで人間関係に序列が生まれるとそれを覆すことが難しくなってしまう。だからこそSNSでは人間関係の序列を巡って盛んにマウンティングが起きている。日本人は極めて人間関係の序列に敏感である。一旦空気ができるとそれに支配されてしまうからだ。

一方で我々は普段から「そんな些細なことで人を恨むのは良くない」とか「我慢しなさい」としつけられる。「自分の意見や感情を口に出してみなさい」という指導や教育は受けない。

さらに社会は一般的に序列を意識して動いている。序列は固定しやすく一旦作られた人間関係がその後の社会での立ち位置を固定し序列下位の人間を支配する。

だから加害少年は学校が準備したアンケートで人間関係について訴えたもののそれ以上の抗議はせず、別の教室に入ってはいけないという学校の規則も守り、礼儀正しく被害少年を廊下に呼び出して包丁で刺した。

おそらくこの学校には「包丁で友達を殺してはいけない」という校則はなかったのだろう。加害少年はお約束は守っている。だが人間として学ぶべきもっとも基礎にあることを二つ教わっていない。自分を大切にすることと、自分を大切にするように他人を大切にすることだ。

では自分を大切にすることを学ばなかった人と常に接している我々には何ができるだろうか。我々も開かれたSNSやLINEのような閉鎖されたSNSで同じような経験をする可能性は極めて高い。これを回避して乗り越えるためにはまず一人ひとりに違和感を口に出す訓練をしなければならない。もちろん他人の違和感に支配される必要はないが一旦は聞いてやるべきだろう。

SNSは閉鎖空間のように見えるが実は閉鎖空間ではない。嫌になれば逃げ出しても構わないし使わないという自由もある。完全にやめてしまうという選択肢もあるのだが、おそらくは複数の社会を持つべきだ。つまり人間関係の序列ができたとしてもそれはその場限りのことであり、嫌なら別の場所で活動すればいいということさえ理解できればいいわけだ。

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