八代英輝という弁護士がTBSの情報番組「ひるおび」で「共産党は暴力的革命を要綱として維持している」と発言して波紋を呼んでいる。日本共産党は抗議し番組側は「今の綱領を見たけどそんなのは載っていませんよね」と謝罪をしたそうである。金曜日の出来事であり月曜日までは番組がないため詳しい説明があるかどうかはまだわからない。弁護士相手に嘘つきだと書くと逆に名誉毀損で訴えられてしまいそうなので、当初のタイトルは日和ってカギカッコ付きで「嘘」とした。だがそれでも何か言われると面倒臭そうなので「事実誤認発言」と改めた。
発言を「嘘」と断じる前にまず事実関係を見てゆこうとWikipediaを調べ始めたのだがこれが意外と面倒だった。面倒な上にほぼ「内輪揉め」の歴史なので調べても面白くない。ひるおびの視聴者には興味がない話題だろうなと思った。
日本はGHQの占領下にあった当時、アジアでは共産主義革命が進んでいた。アメリカでは過激な共産党狩りが起こった。アメリカでもマッカーシズム(マッカーサーではなくマッカーシーという別の人だ)による共産党員やシンパ探しが横行する。軍だけでなくハリウッドなどでも赤狩りが行われたそうだ。日本ではレッドパージと呼ばれ国会議員が失職させられ報道機関からも追放者が出たりしている。
そのうち朝鮮動乱が起きやがて戦争に発展する。米軍が朝鮮戦争にかかりきりになると国内の赤化対策ができなくなる。警察力の強化が行われ自衛隊の前身となる組織が1950年に作られ(つまり防衛ではなく日本人の取り締まりが当初の目的だった)共産革命を防止するGHQ指令とその後継となる法律が作られた。これは破壊活動防止法である。破防法の成立は1952年だったそうだ。この年には警察予備隊も自衛隊に改組している。
公安調査庁は今でも当時の状況をウェブサイトに残している。共産党は1951年に51年綱領を作り武装闘争の準備を行ったと説明している。さらに「敵の出方論」を採用し「相手が弾圧してくるなら自分たちも暴力で応じよう」と主張しておりこれを現在まで改めていないと言っている。
実際に51年綱領による暴力事件も起きているようだ。
一方で、現在の共産党はこれを否定している。彼らには彼らの解釈があり公安調査庁のものとは異なる。つまりこの件については双方の意見が対立している。この対立しているというのが今回のポイントである。
日本共産党のロジックでは「この51年綱領は一部の過激分子が唱えたものでありそもそも自分たちはその系譜を受け継いでいない」ということになっている。ではなぜこんなことになってしまったのか。
スターリンの影響を受けた当時の共産主義勢力は「日本でも暴力革命を起こすべきだ」と当時の日本共産党を批判した。これが所感派・国際派の対立を生む。この対立は次のような複雑な経緯をたどる。
- 共産党は野坂参三の元アメリカ軍を解放軍だと規定しており平和革命を追求していた。1950年スターリンの影響を受けたコミンフォルムによりこの日本共産党の規定が批判された。
- 徳田球一が「日本には日本の立場がある」という所感を発表し所感派と呼ばれた。野坂・徳田路線を批判しコミンフォルムを受け入れるべきとした人たちは国際派と呼ばれたが非主流派扱いだった。コミンフォルムは暴力革命肯定なので国際派が好戦派になったのだと解釈できそうなのだが実はそうではない。
- 所感派はコミンフォルムの批判を受け入れたが屈辱感があり腹いせに国際派を左遷した。このため国際派は好戦勢力にならなかった。一方で、日本には日本の立場があるとしていた所感派がレットパージにより地下に潜り過激化する。徳田と野坂は北京に亡命したという。
- 「地上」に残った宮本顕治らは日本共産党全国統一委員会を設立し事態収拾を図るが、所感派は北京とモスクワで毛沢東とスターリンから支持を取り付けて対立姿勢を続けた。
- 共産党は武力闘争路線が嫌われ全員落選した。
- レットパージが解け、徳田が
- 亡くなり、スターリンも亡くなったため対立する理由がなくなり1955年に党は再統一された。中国型の武力衝突路線を放棄し双方が歩み寄る形で1955年までに宮本顕治体制が作られた。
- コミンフォルムもスターリン批判の流れの中で1956年に解散した。
宮当時の内部闘争の過激さやウエットさ(納得して自己批判しているはずなのに腹いせに国際派を左遷したりしている)から宮本体制で「革命路線をとったが選挙で落選しては元も子もないからキッパリ決別しよう」と言えなかったんだろうなという気はする。
書籍は出ているようだが、当時の文書はネットには残っておらず実際になぜきちんと総括しなかったのかはわからない。結果的に「一定の役割を終えた」として否定しないままで総括してしまった。これがのちに公安調査庁に利用され今でも反共産党宣伝に使われることがある。
のちに野坂参三はスパイ容疑をかけられて日本共産党から追放措置を受けている。ソ連崩壊後に野坂が保身のために味方を敵に売ったことがわかったのが原因だということになっているようだ。そしてこの時に既に亡くなっている徳田と野坂が勝手にやったことだと総括し、51年綱領をなかったことにしてしまったのである。
1950年から55年にかけて、徳田球一、野坂参三らによって日本共産党中央委員会が解体され党が分裂した時代に、中国に亡命した徳田・野坂派が、旧ソ連や中国の言いなりになって外国仕込みの武装闘争路線を日本に持ち込んだことがあります。
「議会の多数を得ての革命」の路線は明瞭
日本共産党は中国共産党とも仲が悪いのでこういう言い方になるのだろうが、部外者である我々には全く興味を引かない藩士である。
八代論は「51年綱領は紛れもなく共産党が打ち出した綱領でありいまでも否定されていないのだから当然生きている」というロジックなのだろう。公安調査庁も「今だに撤回はしていないのだから共産党の綱領はいまでも生きているものと解釈している」と国会答弁している。つまり「そういう解釈がある」というのは事実である。だが公安調査庁にも事情がある。
公安調査庁そのものが本来の役割を終えつつある。共産主義の脅威が去ったからである。そのためテロ集団だったオウム真理教を調査対象に加えたのだがその後日本には目立ったテロ組織が現れていない。例えば日本の中にイスラム過激派が増えてくればまた活躍のチャンスはあるだろうが今はムダな組織と呼ばれかねない。現在彼らが新しく任務に加えたがっているのがサイバーテロ対策だ。経済安保と呼んでいるそうである。「仕事は作り出すもの」なのである。
ここでポイントになるのはそれぞれが解釈であるということである。解釈が異なる問題は多角的に論点を明らかにしなければならないという取り決めがある。コメンテータは謝ったり降板したりすればいいのだが、放送局はそうはいかない。一旦触ってしまうと、自動的に論考義務が生じてしまうのだ。放送法第4条は次のように定めている。
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。一 公安及び善良な風俗を害しないこと。二 政治的に公平であること。三 報道は事実をまげないですること。四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
放送法(昭和二十五年法律第百三十二号)
意見が対立している問題なのだからできるだけ多角的に論証すべきであって、単なる謝罪・降板だけではTBSはその義務を怠っているといえるだろう。
おそらくこの八代発言に至った経緯は次のようなものだろう。もともと八代さんは次のような公的機関の委員をしている。
- 防衛省オピニオンリーダー
- 国土交通省空港コンセッション検証会議委員
- 海上保安庁政策アドバイザー
このため、普段から中国共産党に対して「不規則」とも言える発言を個人的見解として挟む傾向がある。例えば海上保安庁は常に中国海警の脅威にさらされていると言ったような発言だ。こういう発言をすると「彼の関係者」が喜ぶのだろうが中国海警は国内問題ではないので「割と一方的な意見が大目に見られてきた」という経緯がある。
もともと公平な立場の人ではないし自分でもその経歴を隠してはいない。このため「共産党」に潜在的な敵対意識を持っているか、あるいはビジネス上そういうポジションを取っているということはわかる。だが、今回は国内の政治勢力について一方的な意見だけを開陳してしまった。すると放送法が出てきてしまうのだ。
こうなると、八代英輝さんの問題というよりはTBSの報道姿勢の問題であるということになってしまう。TBSは逃げずにこの問題に取り組むべきであって謝罪して終わりというようなことにしてはいけないと思う。少なくとも共産党と立憲民主党の関係者を呼んで彼らの声を一時間くらい語らせるべきだろう。
この発言があったのは金曜日だったのだが先立つ水曜日に共産・志位氏「敵の出方論」、使用しない方針を表明という記事が出ている。日本共産党はこの暴力革命論が反共産党キャンペーンに利用されていることがわかっているので「封印する」という記事が出ていたようだ。なんらかの理由で共産党全体に批判的な見方をしている八代さんはこの記事を読んで「形だけ作っても本質は変わっていないのだろう」という彼の党派的意見が言いたかったのだろうという気がする。それはそれで言ってもよかったのだが根拠として綱領をあげてしまったために問題が複雑化した。
現在の日本共産党にはそんな規約はない。少なくとも正確性という意味からは「否定していないから今も維持していると怪しんでいる」くらいの表現しかできない。ちなみに共産党は公式にはこう言っている。