アメリカがアフガニスタンから撤退し政府が崩壊した。アメリカが新しく国を作ろうとしたアフガニスタンというのはそもそもどのような地域なのか。そもそもアフガニスタンという国はない。アフガニスタン南部は東イラン語派の人たちが住む地域であり、北部にはウズベクなどのチュルク語系の領域になっている。さらに東イラン語派の人たちの間にも西イラン語派のペルシャ語を受け入れた人たちとそうでない人たちがいる。さらにモンゴルが支配していた時代にやってきてイラン系の言語を受け入れた人たちも住んでいる。つまりアフガニスタンという国はそもそも存在しないのである。だからアフガニスタンに国を作る試みは失敗した。
アフガニスタンの国土を描いてみた。中央部にヒマラヤ山脈から続く山岳地帯がある。南部は砂漠になっている。そして北部には中央アジアに続く平原がある。これがアフガニスタンである。国土面積はフランスとベルギーを合わせた程度の大きさだと思えばいいそうだ。この地域にイラン系、チュルク系、モンゴル系の人たちが住んでいる。
アフガニスタンの最大民族はパシュトゥンと呼ばれる人たちだ。言語はパシュートという。パキスタンでは11%を占める少数民族だがアフガニスタンでは多数派である。彼らはペルシャ語と近い言葉を話すのだが正確には東イラン語派という別の系統の言語を話す。また南には少数のバロチと呼ばれる人たちが住んでいる。彼らもペルシャ語と近いイラン系の言語を話すそうだが彼らの言語は西イラン語派である。さらに山岳部にはペルシャ語を受け入れたタジクと呼ばれる人たちが点々と住んでいてロシア圏内のタジキスタンにまで広がっている。このようにアフガニスタンのイラン系住民はイランとの距離がそれぞれ異なっている。
パシュトゥンは昔ながらの伝統を守っていて氏族社会を形成している。ドゥラニ朝を作り近代アフガニスタンの基礎を作った。パシュトゥンワリという文化コードを持ちこれを他民族に押し付けたりもしている。タリバンもパシュトゥンが作った。
山岳地帯にはパシュトゥンの他にアイマク・タジク・ハザラと呼ばれる人たちが住んでいる。タジクはイラン系の人たちでペルシャ語を受け入れた。だがタジクの中にもモンゴル系のタジクがいる。またはっきりとモンゴル系の顔をしていてイラン系の言葉を話す人たちはアイマクと呼ばれる。彼らもペルシャ語を受け入れた。つまり血統的にモンゴルだがペルシャの伝統や言語を受け入れた人たちが山岳地帯に住んでいることになる。モンゴル系のキプチャクハン国とイルハン国に支配された名残かもしれない。西部のヘラートはイルハン国の領域でカブールなどの東部はキプチャクハン国の領域だった。
山を越えた北部にははウズベク人とトルクメン人が住んでいる。名前が示すようにウズベキスタン、トルクメニスタンというロシア・ソ連の配下に置かれていた人たちと同じ民族である。ウズベキスタンにはウズベク人として登録されているトルクメン人もいるそうだ。ワハーン回廊という細長く突き出したところにはキルギス人が住んでいる。彼らはチュルク系の人たちだ。
つまりこの地域には、モンゴル系・イラン系・チュルク系の人たちが混在していて、イラン系、チュルク系の言語を話す。そしてイラン系言語には東イラン語派の人たちとペルシャ語(西イラン語派)を受け入れた人たちがいる。細かな谷がたくさんありそこに人々が逃げ込む事ができる。例えて言えば谷の連合体である長野県ににている。また、近隣の帝国から逃げ込める谷が多くあるという意味ではスイスに似ているといえるかもしれない。スイスも複数言語の国民が暮らしている連合国家である。
スイスとアフガニスタンの最も大きな違いは近隣諸国との関係だろう。スイスは自律的に永世中立政策をとって帝国からの距離をおいてきた。ところがアフガニスタンはロシア・ソ連とイギリスの緩衝地帯になった。ドゥラニ朝をイギリスが保護して山岳の北部も支配させた。パシュトゥン中心の国家だったが国家運営のためにはタジク人と協力せざるを得なかった。武力に優れるパシュトゥンだけでは国家運営ができなかったものと思われる。
この地域のもう一つの特徴は、山岳と峠である。重要なルートが二つある。一つはウズベキスタンのマザリシャリフ・カブール・ジャララバード・イスラマバードに抜けるルートで、もう一つはヘラートあたりからカブールに抜けるルートである。
ペルシャ帝国本体はこの地域には伸びてこない。イラン系は住んでいるがペルシャ世界から見ると辺境になっていて東イラン語派のパシュートを話す人たちが支配的である。モンゴル系が入ってきたことはあるが帝国として定着することはできなかった。
ヘラートはペルシャを飲み込んだモンゴル系のイル汗国が解体するとその東縁地域として再びペルシャから切り離された。そのあとティムール朝が引き継ぐ。ここで再びイラン東部と一体化したがティムール朝自体がチュルク語化した。ウズベク領内にあるサマルカンドとヘラートには地方政権が残りしばらく生き延び、末裔が北インドに渡ってムガル帝国を作った。ヘラートはウズベクとサファヴィー朝(ペルシャ)が争う地となり没落していった。
このルートを辿ってインドを支配した人たちは意外と多い。アフガニスタン北部の平原はバクトリアと呼ばれていてここから入ったクシャナ朝がインド北部を支配したことがある。おそらく彼らが東イラン語派の基礎を作った人たちなのだろう。ガズナ朝がアフガニスタン南部を拠点にインド北部を支配し続いてティムール王家出身のムガル帝国の始祖のバブールがサマルカンドからカブールに逃れカイバル峠を超えてインド北部に進出した。この地域は北部や西部からイラン系の人たちが入り込むルートになっている。つまりインド亜大陸のセキュリティホールになっているのである。
イギリスは中央アジアがロシア・ソ連の領域になったことから緩衝地帯を設けるためにパシュトゥン・バロチの地域をアフガニスタンとインド西部(のちのパキスタン)に分断した。分断したものの民族的には同一なのだから相互に行き来がある。これが今回の混乱の大元になっている。アフガニスタンで追い詰められたタリバンはパキスタン領内に逃れればアメリカに攻撃から逃れる事ができるのだ。
アメリカ合衆国はテロリスト対策を名目にここに入り込み、ありもしない「アフガニスタン」という国を作ろうとした。パシュトゥーンから見るとアフガニスタン人というアイデンティティよりもパシュトゥンワリで結びついたパシュトゥンというアイデンティティの方が強いわけだし中部の山岳民族(中にはモンゴル系もいる)や北部のチュルク系もパシュトゥンと同じアイデンティティはない。
もともと無理のある国家建設だったのでうまくゆくはずもない。内政に忙殺されて余裕のないバイデン大統領はコンセントを引っこ抜くようにしてアフガニスタンから撤退してしまったために状況が混乱した。
例えば今回は東部カブールと西部ヘラートは異なる地域圏であると説明した。アメリカに支援されていた旧アフガニスタン政府にも参加していたヘラートのイスマイル・カーン氏は独自に関税を取り国庫には収めたかったそうだ。タリバンに一時拘束されて「タリバン側に寝返った」とされている。アフガニスタンはこうした地域勢力の連合体になっていて自分たちの地域運営ができればあとはボスが誰でも構わないのである。ガニ大統領を通じて地域を一括支配しようとしたアメリカのやり方がいかに稚拙なものであったのかということがわかる。
民族的に隣接する国々とつながっているためこの地域に武器が広がると周辺国の同胞を巻き込んだ地域騒乱に発展しかねない。これを防ぐためには国境を閉じてアフガニスタン内部の内戦を封じ込めるしかない。おそらく内部では人権的な問題が起こるのだろうが下手に介入してしまうと難民が周辺国に押し出されることになる。つまりヨーロッパも多少の人権問題には目をつぶって「タリバンがうまく統治してくれている」と言い張るしかなくなるのかもしれない。