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アメリカで「この瞬間にふさわしいディストピア」と表現された東京オリンピックの開幕式

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色々な事前情報に振り回され気味だったオリンピック開会式が終わった。実際に見てみると変な違和感があった。事前情報にだいぶ毒されているのではないか?と考えて最初は気にしかないようにしていたのだが、次第に違和感が拭えなくなってきた。そこでアメリカの論評を読んでみることにした。「まさにこの瞬間に相応しいディストピアを感じました」としているVARIETYの論評を見つけた。一体何がまずかったのだろうか。

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まずこの論評を読む前に時事の記事を読んでみよう。NBCは選手の肉声を中心に静かに番組を組み立てたと言っている。鎮魂にふさわしくコロナ禍にも配慮した放送だったのだなと思う。これが日本語情報バブルである。

次にエンターティンメント情報の老舗VARIETYのものを読んでみよう。おそらく政治的にはリベラルなのだろうがエンターティンメントの論評としては信頼してもいいのではないかと思う。DeepLで翻訳して読んでみた。

空っぽのスタジアムと妙な自粛+鎮魂ムードに違和感を感じるところから始まる。つまりオリンッピックらしくないと言っている。普段ショーアップされたスポーツイベントを見ているからなのかもしれない。徐々に盛り返してゆくのだがジョン・レノンのイマジンを合唱しても状況は変わらなかったと書いている。このイマジンがどのように捕らえられているのかは書かれていないが「アメリカ人にはピンと来たんだなあ」ということはわかる。

もう一つ顕著なのがアメリカで有名な日本人の起用である。大坂なおみさんとかひろみさんがフィーチャーされていた。ひろみさんは本名を上原ひろみさんという。バークリー音楽院を首席で出てアメリカで活躍しているジャズ・ピアニストで「ひろみ」と言っただけで誰のことかわかるようだ。日本人がジャズを勉強しに来たというのはモンゴル人が相撲をやりにきたというのと同じ感覚だろう。歌舞伎など見せられてもアメリカ人にはわからない。だからアメリカで有名な人とコラボさせたんだろうなあと気づく。市川宗家の「睨み」には疫病退散の意味があるそうだがそうした日本側の願いは届かなかったのではないだろうか。

ただ、各国選手の入場(英語ではパレード・オブ・ネイションズというそうだ)が始まればいつもの調子に戻るだろうとコラムの筆者は考えていた。これは実際に見ていてもそう思った。選手が主役なんだからこれは当然である。特にアルゼンチン選手のはしゃいでいる様子などは延期されたオリンピックにやっと出られた喜びに満ちていて演出抜きに楽しかった。

ところがアメリカはここで別の状況にあったようである。アスリートの画面と広告が分割されて流されたそうだ。スリランカではハーシーの広告が、フィリピンではホワイトクローのハードセルツァーが、エジプトではウォルマートの広告が流れましたと書かれていてカオスぶりが伝わってくる。ガンビア選手団の入場では白人が釣りをするシボレーのCMが流れていたそうだ。時事の書いている静かな抑制されたトーンという印象とは全く違っている。

時事の記事のアメリカ選手団の肉声が挟まれていたという言葉の意味がわかる。つまりアメリカのテレビ局は日本側の演出にアメリカ選手団の肉声を重ねて流しているのである。彼らは他国の文化にはさほど興味はないのだ。

コラムの最後は「少なくとも、NBCがピーコックの広告を流している間、選手が誰もいないスタジアムに向かって誰にも手を振らないのを見るのは、まさにこの瞬間に相応しいディストピアを感じました」と結ばれている。

つまり静かさと過剰なコマーシャリズムの悪魔的融合が災害級のディストピアの演出になってしまったことになる。日本の記事は開会式は概ね好意的に評価されたとなっているものが多い。だが実際のアメリカ人がどう思ったのかはわからない。おそらく大部分は無関心であり、一部辛辣な人がいるという感じなのだろう。つまり好意的な記事など誰も読まないと思うのだ。

ここで改めて博報堂出身の「エグゼクティブプロデューサ」の上から目線のコメントの意味がわかってくる。日刊スポーツが「日本語でタイトルが欲しい」と注文をつけたのに対して……

「コンセプトの日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」

五輪パラ開閉会式統括、組織委日置貴之氏が共通コンセプトに込めた思いとは

と答えていた。

彼らのいう世界というのはNBCのことだったのである。コンセプトビデオはこんな感じだ。日本語は出てこないし日本語版のビデオもない。

NBCが直接注文をつけたのかIOC側のマーケティングディレクターが「これでは売れない」と言ったのはかわからない。だが、アメリカ人にわかりやすい味付けにしなければ許可は降りなかっただろう。そしてそれでもアメリカ側は満足しなかった。ショーはアメリカ人によるアメリカ人のためのものでなくてはならない。そして彼らは世界中から移民が集まってきたアメリカこそが世界であると考えている。

日本が自国の伝統を披瀝するのは別に構わない。だがそれは「東洋的エキゾチズム」の演出に過ぎず大した意味はない。歌舞伎もおそらく日本人の自己満足だ。アメリカ人(つまり世界)はそんなものに興味はない。コンセプトにしても最大の顧客であるアメリカ人関係者に伝われば構わないので日本語の翻訳もなかったのだろう。そう考えると、コンセプトビデオの表現がアメリカやヨーロッパのテレビ的だった意味もイマジンが英語だった意味もよくわかる。あれば欧米向けのショーだったのである。

しかし日本としては、世論に配慮した自粛もしなければならないし、日本の国威発揚もしなければならない。最終的にこれらが渾然一体となり「なんだか気持ちの悪い」ショーができてしまったことになる。おそらく中途半端さの原因はそこだったのであろう。

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