今日は川内博史発言で立憲民主党支持を見直そうと思ったという話を書く。理由は立憲民主党の「インテグリティの欠如」である。
立憲民主党についての立ち位置を書いておく。自民党政権が長く#もう自民党にはうんざりですと思っている。表面的な辻褄さえあっていれば後は何をしてもいいという姿勢にうんざりだ。特に異論を封じ弱者を無視する態度は国政政党としてはふさわしくないと思う。結局のところ「国民の代表」になってくれる政権が欲しいわけだがおそらく自民党はお友達のお友達によるお友達のための政治にしかならない。自民党は日本を分断している。
根本にあるのがインテグリティの欠如だ。日本という国に住んでいる誰もが「ああこの国で生活してよかったなあ」と思えるのが理想だ。もちろんそんなものは単なる理想にしか過ぎないとは思うのだが、政権政党を選ぶにあたってはこのインテグリティを大切にしたい。
自民党が下野の総括として出した2012年憲法案には民主主義に対する恨みが込められている。おそらく彼らが国民を「あいつら」だと思うようなったのはこの2012年憲法あたりからだろう。おまえたちは俺たちを追い落とした。だから俺たちもお前らを認めないというルサンチマンに満ちたメッセージが安倍政権や菅政権にはある。
嘘をついたり資料を隠したりするのも「どっちみち全員を満足させることはできないから切り捨てたことがわからないように嘘をついてごまかそう」ということだ。文書改竄をしてまでも嘘をつき続けていた自民党は我々全体の代表である資格はない。だが彼らはもう気にしない。
この分断は東京オリンピックにも暗い影を落としている。私物化とはつまり恩恵を受けるものとそうでないものを分断し「そうでないもの」は恩恵を受けるものにひたすら奉仕しリスクを甘んじて受け入れるべきなのだというようなことである。オリンピックのスポーツインテグリティという理念は私物化され汚された。
宮内庁が週刊誌を使って「その総仕上げに天皇は利用させない」というメッセージを発信したことで国家統合の象徴としての意味合いは大きく傷ついた。宮内庁といえども政府の一員なのだが実際には官邸対宮内庁という対立構図になっている。そして宮内庁はもうそれを隠さなくなった。
我々の国はかつてないほど傷ついている。それを癒す政党こそが時期の政権政党にはふさわしい。そうした意味で「立憲民主党はあなたです」という明確なメッセージを持つ政党こそが政権を担うべきなのではないかと思ってきた。あなたと言うのは我々国民一人ひとりである。つまりみんなの代表でありたいという気持ちが明確に伝わってくる。
ただ5000人のフォロワーを抱えるスペースを運営するようになって「自分ではそう思っていても他人には勧められないなあ」と思っていたのは確かだ。違和感が拭えないからなのだが違和感の正体を考えるのを避けてきた。
今回の川内博史発言でわかったのは、おそらく立憲民主党の中には「国民統合などどうでもいい」と思っている議員がいるということだ。つまり政党の中に理念を信じていない人がいるのだ。天皇というのは国民統合の象徴なのだが、それを自分たちの主張のために利用しようとする人がいる。
なんとなくまずいということはわかったのだろうが、おそらく何がいけなかったのかということはよくわかっていないのだろう。統合を傷つけて分断を煽るということで「全ての抱合を目指す」という理念は単なる政権奪取のためのお題目に過ぎないということを雄弁に告白している。ここまで醜悪に、そしてあからさまにその様を見せられてしまうと嫌でも直視せざるを得ない。
川内さんの発言を借りると「そこまでして分断を煽り失敗を際立たせたい思うこの状況が異常なのだ」と思う。立憲民主党が政権を取ることが目的ではない。我々の国を再び一つにしようと一緒に汗を流す政党を応援したいのだ。
この文章を書いている今も密かに「立憲民主党はきちんと川内さんを処分してくれるのでは?」と淡い期待を寄せている。だがこれまでも何度も裏切られてきたわけだからあまり過度な期待はしないほうがいいのかもしれないなあとも思う。
今後の対応に注目したい。