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中国の農業と気候の関係についてゆるく調べる

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Quoraに中国が朝鮮を完全に併合しなかったのはなぜかという質問があった。土壌があまり豊かではないので農地として侵略する理由があまりなかったのではないかという仮説を立てて回答を書いた。その時に「中国の北方には肥料のいらない土壌が広がっているのでそこが農業を支えたのではないか」と書いたのだが調べてみるとどうもそれは間違っていたようだ。寒すぎて農業はできないようである。中国の食糧供給を支えたのは一貫して南部のコメだったようだ。

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秦嶺・淮河線」という気象区分がある。北部は降水量が少なく農地にはあまり向かない。草原が広がる麦作地域なのだという。そしてそのさらに北には雑穀しか育てられない地域がある。皮肉なことに栄養分が豊かな土はそこに眠っている。

さらに調べていて面白いことがわかった。そもそも人は農地を求めて他国を征服するようなことはない。安定してから土地を開発するのである。Wikipediaで中国歴代王朝の農業に関する記述を見てみた。南北を比べると伝統的に江南地域の方が安定している。唐代には麦や栗がよく流通していた。宋の時代に農業の集約化が起こり農具や新品種の開発が行われ次第に米作が盛んになる。

江南地域は雨が多く肥料分が流出しやすい特徴があるのだが施肥の工夫も土地ごとに細かく工夫されるようになったそうである。明の皇帝は農民出身で米や麦などの栽培に関心があり上海や蘇州といった地域が中国の農業を支えていたのだという記述もあった。初代朱元璋は貧農から托鉢僧になったという。農地への関心は土地の測量をやり直した豊臣秀吉に似ているが豊臣秀吉よりも境遇は過酷である。こうした工夫により華南が中国の食糧供給を支えるという構図ができたようだ。

清の時代に入るとトウモロコシ、サツマイモ、落花生などの救荒作物が盛んに栽培されるようになり人口が急増したそうである。1685年に1億1千万人だった人口が1833年には4億人になっていたそうだ。つまり、中国の人口はまず南部の米作によって支えられておりのちに新世界から入ってきた救荒作物によってさらに支えられるようになったことになる。麦は工夫によって収量が増えるわけではないということになるだろう。

ウクライナは麦作地域として知られている。施肥しなくてもいいほど豊かな土地は「チェルノーゼム」と呼ばれているそうである。ここはインドヨーロッパ語族の故地になっていているのだが、チェルノーゼムと印欧語族の関係について書いた記事は見つけられなかった。まだまだわからないことが多いようだ。

中国北部とウクライナは同じような「湿潤大陸性気候」に属するそうだが、中国は寒い時に雨が多くユーラシア側は平均して雨が降るという違いがあるようだ。ちなみに同じような気候である北海道も「平均して雨が降る」地域である。

つまり秦嶺・淮河線の北側は雨が降らないことが問題なのではなく、農業ができない冬に雨が多く水が利用できないという問題があるようである。一方で雨が多く土壌から栄養分が流れやすい南部は工夫次第で肥料分を追加することができる。共産党が台頭してきた頃のアメリカ人は「まとまった治水事業が必要なので中国には専制主義が発展した」と考える人もいたようだ。オリエンタルディスポティズム(東洋的専制主義)と言われる政治類型であり仮説だが、背景には自然改造をして収量を上げることができるコメの特別な性質があったのである。

おそらく気候の問題だけではないのだろうが、中国北部は政治的に安定しない時期が多かった。北部から常に女真系やモンゴル系などの人々が攻めてくる。軍事的には強いが豊かな南部を収奪し混乱を逃れた人たちが南部に逃げてゆくというのが一貫して見られる姿である。

唐の時代に一度拡張した中国は北部地域を異民族に支配される。朝鮮半島を塞がれる形になり朝鮮半島には次第に独自の社会が築かれるようになった。異民族に北の出口を塞がれたと言ってもいいし朝鮮民族は異民族に守られていたとも言える。

中国の農業は三層に分かれている。中国北部の「東北地方」は大豆・雑穀・春小麦の産地である。その南側の華北地方では冬小麦・コウリャン・トウモロコシが採れる。そしてそれより南部の秦嶺・淮河線の下が米作地域になる。米作は集約化や高生産化が可能であり中国の人口を支えてきた。ちなみに内陸部には農地がなく農業の可能性は限られている。

コウリャンはモロコシとかタカキビなどと呼ばれる雑穀である。元々はアフリカの熱帯産らしいが乾燥に強く稲や小麦が育たない地域でも栽培が可能なのだという。

春小麦と冬小麦はそういう品種があるわけではなく「いつタネをまいて収穫するか」の違いだという。普通は冬小麦で米の裏作として利用されることも多いそうだが寒冷地では冬に栽培されるそうだ。中国の最北部は豊かな土壌が広がるが気候が寒すぎたり降雨量が足りないために春小麦すら栽培できない地域があり乾燥に強いコウリャンが栽培されているということになるだろう。

唐の時代に一旦拡大したものの華南まで押し戻されていた中華世界だが、清の支配に組み込まれることでより大きな世界の一部になった。中国共産党はこの歴史を改変し「清の支配領域は全て中国なのだ」と主張するようになった。こうしてこの広大な土地が全て中国と呼ばれるようになったのである。

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