西田昌司とかいう議員がLGBT法案に反対して「マイノリティの権利ばかりいいたてるとサイレントマジョリティが息苦しくなる」というようなことを言っていた。この人たちは何を言っているのだろうと思ったのだが、今回はこの「息苦しい」について考える。自称「保守」の人たちのかわいそうな側面が見えてくる。
まず、西田議員についてみてゆく。西田議員は自民党が斜陽していた2006年の安倍政権時代に自民党の候補者になった。現在の統治者としての自民党ではなく「沈み行く太陽」としての自民党とそれに続く野党時代が議員としての初期体験だった。
野党として民主党追求の先鋒として活躍したそうだが政権に復帰してからはめぼしいポストにはついていない。おそらく以前ほどの充実感は感じられていないのではないかと思う。
ただし地元では人気があり2019年の選挙において京都選挙区ではトップ当選だったそうだ。つまり有権者は掴んでいるわけだ。
面白い事に都市部の京都市内では共産党議員にかなり追い上げられている。京都市では自民党は組織選挙には弱いのかもしれない。京都市は都市部にあり利権の誘致にあまり興味がない。西田議員は新幹線計画の全額国費による整備計画などに熱心に取り組んでいる。加えてYouTubeチャンネルでMMTなどの非伝統的な経済セオリーについて発信されているそうである。だがそれが全国的な知名度に結びつくことはない。
西田さんはその意味では「維新型自民党員」ということになる。攻撃に強いが官職には使いにくい。つまり選挙対策と地位が一致しないという人なのだ。これが地元の県会議員を抑えていれば能力がなくても大臣になれる二階派の議員とまったく全く異なっている。おそらく国土交通省のそれなりの役職につければ新幹線計画は国の事業になるだろう。だがそうならない。
それなりに才覚があり一生懸命問題に取り組んでいる。だがなかなか評価してもらえない。
次に、なぜこのような人たちがマイノリティの権利保護を邪魔するのかを考えてみた。まず、仮説としてマイノリティの権利が増進されると自分たちの取り分が減ると考えているのだろうと置いてみた。だがこの法案はそもそも差別の禁止を努力目標として置いている程度のものであり経済性で説明するのは難しそうだ。
今度は「息苦しい」に注目してみた。本当にそう感じているのではないかと思ったのだ。例えば無視された人は実際に頭の中で痛みを感じているという研究がある。身体的表現は割と本質を表していたりするものなのである。
国会はいつも弱者や少数者の問題について話し合っている。配慮が必要な人たちだからである。中には身体障害を克服した人たちや性的自認の問題に一定の答えを出した人などもいる。彼らはヒーローとして扱われる。実際にはその裏に「サイレントマイノリティ」という人たちもいるのだがそれはあまり注目されない。
普通というのは一見いいことのように思えるが「取り立てて変わったところもない取るに足らない」存在でもある。特に西田さんのように日々支持者の心をどう掴むかということに努力をしているが結果が得られない人から見ると「単に普通でないだけで配慮してもらえる人」の存在は疎ましいだろうなあと思った。背景には同じように能力があるが単に生き残れるだけで成果が得れないという人はたくさんいて、同じような息苦しさを感じているのかもしれない。
例えば病気を自慢する人がいる。病気になることで「人生の意義」を見出したりするからである。苦しいには違いないが人生に課題ができたと感じる人もいるのだ。普通の人たちから見ると、他人に注目してもらえるマイノリティは人生に意味のあるうらやましい人たちということになる。おそらく、西田さんの言っている息苦しさの本質的な問題は「もっと評価されるべき斬新なアイディアを持っているのに省みてもらえない」ことなのかもしれない。
おそらく「人生に意味を与える」ことや「お互いに認め合う」ことが本質的な解決策になるのだろうが日本の教育は人間にそういう自尊心は与えてくれない。そうなると特別な注目を浴びる少数者の権利獲得を妨害したり自分たちが差別できる存在を置いて「自分たちの方がマシなのだ」という気分に浸りたいと考えるのであろう
サイレントマジョリティというのは本来の使い方(普通の政治的意見表明をしない多数市民)を表しているではなく人生に意味を見出せなかった普通止まりの人たちのことを表現しているのだろうなと思った。
実際のサイレントマジョリティはこういう人たちではない。消えた年金問題で自民党が見限られたことがあった。最終的には麻生政権の混乱に結びつき政権を手放してしまう。おそらく普通の日本人は自民党に感謝などしていない。自分たちが自民党を放任してやっているくらいにしか思っていないだろう。普段は政治に注目などしないのだが、年金問題のように不満を感じるといとも簡単に自民党を見限って他所に乗り換えてしまう。期待に答えられなかったから「もういらない」となってしまうのだ。
ところが見放された自民党はそうは思わなかった。民主党が政権を取ったのはやたらに人権思想を振り回すわがままな日本人が増えたからだと考えた。つまり、彼らは問題を付け替えた。そしてそういう人たちから日本を守るためには主権を制限して公共を大きくしなければならないと考えた。正しい世界では自分たちが公共を代表しているはずだと思い込もうとしたわけである。最近はやりの転生モノの漫画のような世界観だ。
2012年のあのめちゃくちゃな憲法草案はこうして生まれた。あれは下野した自民党のルサンチマンの発露であってまともな政治的提案とは言えない。案の定憲法学者たちに大いに叩かれた。そして再び政権を取って彼らが転生モノ漫画に逃げる必要がなくなると打ち捨てられた。
おそらく今回もコロナ対策の遅れから政権を手放さないまでもかなり負けるのだろう。息苦しさを感じる彼らが今度は誰のせいにするつもりなのだろうかと思う。否定された痛みというのはおそらく身体的に感じられるものなのだが、その痛みがどこからくるかをうまく言語化できていないのだろう。